みことばに力があると主張し、

 

相手が理解できていなくても

 

やたらめたら聖書のみことばを

 

一方的に宣べ伝える事を良しとする

 

牧師がかなりの数いました。

 

みことばが力というのは正しいです。

 

それはみことばを礎として

 

そのみことばを生きる時に

 

自力に依らぬ天賦の力が

 

得られるという事なのです。

 

ただやみくもに聖句を

 

叫べば良いわけではなかったのです。

 

この傾向は、保守・進歩、

 

両教会にみられた現象でした。

 

そして、彼らの蒔いた種は実ることなく

 

3千もの無牧の教会、

 

年間、一千もの閉鎖される教会を

 

生み出したのでした。

 

過ぎたるは猶及ばざるが如しという

 

鷹山公の至言は、

 

伝道の現場でも思い出されるべきでした。

 

みことばの歪んだ理解は、

 

このように甚大な被害をもたらします。

 

そして、世俗社会と変わらず、

 

このような被害を来たらしめた牧会者は

 

悠々自適な老後生活を送り、

 

不毛な畑を後輩牧会者に丸投げし、

 

自分らの過ちの清算はしません。

 

キリスト教の伝道が先細りするのは

 

当然でしょう。

 

みことばは、

 

救われたキリスト者が御恩報謝の心で

 

そのみことばを生きる時に

 

天賦の力を付与するのです。

 

ここを忘れると

 

みことばは、単なる呪術や

 

おまじないのたぐいに変貌するのです。

 

これは正しい信仰は程遠いものです。

 

 

 

 

 

 

神の国はことばにはなく、

 

力にあるのです。

 

(第一コリント4:20 新改訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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