自然数は発見されたのか発明されたのか | メタメタの日

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 数学大好き少年だったが、興味の向かう先は、数学の思想や数学史だった。数学基礎論という学問があることを知って、こういうことを自分はしたいのかなと思って、数学基礎論というタイトルの本を覘いてみたが、記号が羅列しているばかりで、これが自分の関心に応えてくれるものとは思えなかった。

 数とは何か、という疑問から「ペアノの公理系」や集合論を見たときも、論理的に正しく「数」というものを定義するとこういうことになるのかしらん???と違和感を覚えるばかりだった。

 今なら、この違和感の由来について語ることができる。


 私たちは、数というものを知っている。少なくとも、1,2,3,・・・の自然数については知っているつもりになっているし、自然数について、お互いの間で意思の疎通を感ずることはほぼない。

 しかし、そうした直観的な理解ではなく、自然数を厳密に定義するためには「ペアノの公理系」が必要だと言われても、それは、私たちが知っている自然数とどこか違うと感じてしまう。空集合から整数をつくっていく集合論も、私たちが知っている整数とは違う。

 どこが違うかというと、私たちが知っている自然数には「大きさ」(多少)という「量」があるが、ペアノの公理系や集合論から定義される自然数には「量」がない、量が感じられないということだろう。そこには「順序」しかない。順序はあるが、何かを「数えて」いるわけではない。私たちは、集合数(基数)と順序数(序数)という自然数の2つの面のうち、集合数の方が基本のように思っているが、数学的には順序数として自然数は定義されるようだ。


 小学1年で、あるいはそれ以前に私たちは、1や2や3をどう習うかというと、{●}や{☆}や{□}などを1、 {●●}や{☆☆}や{□□}、あるいは{●☆}などを2、{●●●}や{☆☆☆}や{□□□}、あるいは{●☆□}などを3と教わるのだ。

 しかし、数学的には、●とは何だ?☆とは何だ?という話になる。1や2や3は数学の対象であっても、●や☆や□は数学の対象ではなく、数学の「外部」にあるコンテンツだろう。数学の外にあるものと一対一対応させることで自然数を定義するのでは、数学の根拠は数学の外にあることになる。

 数えることから数が生まれ、数から数学が生まれるとしても、発端の数えることの対象は、羊であれ、鶏であれ、団栗であれ、数学の対象にはならない。

 数学は自立するためには、何かを対象として捉えて数える、その何かに依存することを止めなくてはならない。何をも対象としないで、捉えるという行為自体から出発することになる。 {●}の中身を無化して、{  }から始める。

 数える、捉える、考える、概念化する、カッコに入れる、などの行為は、「行為の対象」と「行為自体」と「行為する主体」の3項に分節化できるだろう。行為の対象が数学世界の外界に存在している限り、数学は自立できないと考えたのだろう。行為の対象の無い行為自体を考えた。カッコに入れるという行為はあるが、カッコに入れる要素はない、そういう集合を考えた。空集合だ。すると、空集合が、次のカッコに入れるという行為の対象となる。空集合を要素とする集合、{{  }}が考えられる。

 最初の空集合{  }を「0」と名付け、いま出来た空集合を要素とする集合{{  }}、つまり{0}を「1」と名付ける。次は、0と1を要素とする集合{0,1}を考え、これを「2」と名付ける。(あるいは、{1}つまり、{{{  }}}を「2」と名付けてもよい。)

 次は、{0,1,2}を「3」と名付ける。以下続く・・・・・・外界に依存することなく自然数が創造される。数学は、無定義用語と公理系で、数学の対象自体を生み出していけることになる。数学は論理学に還元され、論理ゲームとして存在するのか。

 しかし、これは、私たちが知っている自然数なのだろうか?

 

 数学の対象は「実在」しているのだろうか、という問いがある。

 0を含めた自然数が今述べたように創られたものだとしたら、自然数は実在はしていないだろう。実在していない「無」を対象化する行為(あるいは、無を対象化したこと)を0と定義し、0という行為を対象化する行為(あるいは、0を対象化したこと)を1と定義し、0と1を対象化する行為(あるいは、0と1を対象化したこと)を2と定義し、0と1と2を対象化する行為(あるいは、0と1と2を対象化したこと)を3と定義し、・・・・たのだ。これは、私たちが「知っている」自然数を定義したものなのだろうか。このように定義されたものは、私たちが「知っている」自然数とは似て非な自然数ではないだろうか。

数学の対象の自然数は、羊や太陽や電磁波が実在するようには、自然には実在していないだろう。1頭の羊や2頭の羊が実在するようには、1や2という自然数は実在していない。人間の目は色彩を見るが、電磁波が物理的に実在するようには、色彩は実在していない。しかし、ある範囲の波長の電磁波を人間の目が色彩として感じるというのは生理的事実である。同様に、人間の理性は、対象(コンテンツであれ、オペレーションであれ)のある側面を量として把握し、量から抽象化した数を認識する。

科学者は研究対象の実在性を疑わないはずだ。自然が論理的に生み出されたものでないばかりか、科学が論理学に還元されるなどとも思ってもいない。同じように、数学者も対象の実在性を疑わないということがあるらしい。自然数が論理的に生み出されたものでないばかりか、数学が論理学に還元されるとも思っていないということだ。



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