差集め算と面積図についての歴史的薀蓄 | メタメタの日

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差集め算・過不足算と面積図についての歴史的薀蓄


差集め算、過不足算は、「盈不足算」として、中国の『九章算術』(後漢時代)の中にすでにあります。解き方は、当時は算木を算盤の上で動かして解いていたわけですが、その別解に現在の「過不足算の解法」(余りと不足の和を単位あたり量の差で割って単位数を出す。差集め算も基本的には同じ解法)と同じ考え方が挙げられています。(『中国の科学』(世界の名著 続1)中央公論社、142ページ)


和書では、『塵劫記』(1627年)に「きぬ(絹)ぬす人を知る事」として過不足算があり、以降、過不足算は「盗人算」として知られます。(岩波文庫版『塵劫記』、222ページ)

『改算記』(1659年)には「ぬのぬす人」として、過不足算があり、解き方は、過不足算の解法ですが、なぜそれで良いのかの説明に、面積図に通ずる図が載せられています。(『改算記 江戸初期和算選書第5巻』研成社、188ページ)


「差集め算」という名称は、明治時代になってから受験算術が盛んになってから生れたのだと思います。明治43年刊行の『受験適用系統的算術解法』に「差ノ集マリ」という項立てをして、問題が並んでいます。(国会図書館・近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/index.html


 明治から戦前、戦後の中学入試の受験算数でいわゆる「特殊算」が生れたのは、方程式という「普遍算」(こういう名称はありませんが)を使わせないで、難しい応用問題を解かせ、それをもって入試選抜の手段としたからです。特殊算は、その解法を知っていれば解けるが、それを知らずに、試験会場で自力で考えると難しい問題となります。

「○○算」という呼び名は、和算にありますが、それと受験算数の特殊算とはつながるものもあるし、つながらないものもあるわけですが、過不足算は、和算とつながる特殊算となります

 で、戦前の算術の国定教科書の編纂に関わった数学界のドン藤沢利喜太郎は、教科書から和算的な問題を追放し、入試に特殊算の難問が出されることを嫌悪したわけです。


 で、国定教科書から追放され、受験算数の中で生き残った過不足算・差集め算の解法の説明に、線分図が使われたのか、面積図が使われたのか、ということが気になります。

 これについては、文献をほとんどあたっていないのですが、多分、面積図は使われなかったのではないかと推測されます。

 なぜなら、面積図の考え方の根底には、量(特に内包量)の考え方があるわけですが、量の体系は、戦後、遠山啓氏らの数教協(数学教育協議会)が提唱するまで、教育界に注目されなかった。

のみならず、藤沢利喜太郎は、数え主義を唱え、量を数学から追放していた。(「数学は量のことを論ずる学問にあらざるなり」(藤沢『算術條目及教授法』1895年、132ページ)

 そして、藤沢亡き後、昭和になって国定教科書を編纂し、和算の問題を一部採用した塩野直道も、量の立場に立っていなかったことは、塩野が戦後編纂に関わった啓林館の教科書を見れば分かります。東京書籍などの教科書が数教協の考えを取り入れて、分数の乗除の説明にタイル図(面積図に通ずるものですが)を取り入れるようになっても、啓林館の教科書は、線分にこだわり続けていました。(最近の啓林館の教科書については未調査)

 では、数教協はどうかというと、「民主主義教育」の立場から、私立中学受験というエリート志向は嫌悪していたから(今は知りません)、受験算数の問題を解説しようなどと思っていなかった(今は知りません)から、「差集め算」の解説に面積図を使うこともなかった。


こういうわけで、江戸時代の『改算記』には、過不足算の解説に面積図の萌芽があったにも関わらず、明治から現在まで、過不足算・差集め算の解説として面積図が主流となることはなかったようです。

私の手元に残っている数少ない受験算数の問題集をみたら、学習指導会編の『中学合格特訓問題 算数』(三省堂、1987年)の135ページに、過不足算・差集め算について、『改算記』(1659年)と同じような図が載っています。同じページの下には鶴亀算を面積図で解説していますが、鶴亀算の面積図もすでに江戸時代にある(千葉胤秀『算法新書』1830年)ので、1987年のこの問題集は、この部分については江戸時代を踏襲しているようです。(意識したのかは不明ですが)

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