メタメタの日

パンセ


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 この数年、和算がブームになっている。

 江戸時代に、ヨーロッパの数学に先駆けて、微積分や行列式を創りだした日本人の和算は素晴らしいと。

 ナンダカナーと思う。

 直接の知的交流が無かったユーラシア大陸の東西で、ほぼ同じ時期に同じような数学が成立したという事実を、日本民族の特殊性の素晴らしさという話にもっていくのか、人間理性の普遍性の素晴らしさという話にもっていくのかは、おのずから別の話だと思う。

 私としては、後者の話にもっていくほうが、人類の未来に対して希望が持てる。


 少し確認しておくと、和算は、「江戸時代に発達した日本独自の数学」と言われるが、注釈が必要だ。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%84%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%8B%E9%A0%AD%E3%80%8C%E6%B1%9F%E6%88%B8%E8%84%B3%E3%80%8D%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E5%92%8C%E7%AE%97%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%AB-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%2B%CE%B1%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E8%AA%A0/dp/4062723727/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1196331246&sr=1-1

 先ず、数学という本来普遍性を目指すものに、民族性を主張することが、ナンダカナーと思う。普遍性を目指しながら、否応もなく民族性や数学者の個性が刻印されることはあるだろう。(天才岡潔がそう書いている。そのレベルになるとまったく分からないが、そうなのだろうと思う。)

 

 「和算」という言葉は、幕末・明治になって西洋の算法を「洋算」と呼ぶことに対抗して生れた言葉だが、洋算が、欧米独自のものではなく、古代エジプト、バビロニア、ギリシア、ローマ、アラビア、インドなどの成果を吸収したグローバルなものであったように、和算だって、日本独自ではなく、中国やインドの成果を吸収したものだった。

 その和算は、吉田光由『塵劫記』(初版1627年)から始まるといってよいだろうし、江戸時代を通じて、塵劫記は算法の別名でもあった。その『塵劫記』のネタ本は、中国の『算法統宗』(1592年)である。もちろん、元ネタを換骨奪胎してはいるが。

 さらに、最近の算数の教科書で和算の問題として紹介されている「油わけ算」(10升の油を7升と3升の枡を使って5升ずつに分ける)だって、その元ネタは、ヨーロッパの葡萄酒を分ける問題だった。(こう断定していいと思う。和算成立期における南蛮文化の影響については平山諦氏の研究があり、私も目を通してはいたが、今ひとつ確信がつかめなかったが、中国に元ネタがないこの油分け算を、それほど独創性がない吉田光由が独自に思いついたとは思えなくなった。)

和算成立に対するヨーロッパの影響は、平山氏の研究が明らかにしたように、それなりにあったと思う。

         *

 昨今の和算に対する関心の高まりは、おそらく、小川洋子『博士が愛した数式』(2003年)あたりから数学に関心が高まったこととか、小中学校で「総合的な学習の時間」が始まり(2002年)、算数・数学の教科書に和算が紹介されるようになったこととかが、直接の引き金になっているのだろうが、その底流には、グローバリゼーションの波が押し寄せる中で、反グローバリズムとして民族文化の見直し、再評価という面もあるのだろう。

 でも、文化が追求する美や真や善って、民族によって囲い込まれるものではないはずだと思う。


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 塾で算数を教えていたとき、「A市を出発して2時間後にB市に着きました」というような問題で、ある女の子が「B市のどこに着いたことなの?」とぼやいたことがあった。国語より算数ができる、ちょっと変わった子で、私自身も小学生のとき、算数の問題設定には迷うことがあった(中学の数学になって悩みから解放されてほっとした)ので、俺と同じようなこだわりを持つ生徒だわいと思ったが、この時は、「B市の市役所の前だろう」などと逃げてしまった・・・


さて、「和算には植木算がなかった」という話から、江戸時代の日本人には、ユークリッド幾何学の「点」の概念はなかったようだ、「線分」の概念まではあったが、という点まで(^ ^)v考察を進めてきたが、しかし、「○○から○○まで」という言い方は、もちろん江戸時代にはあったし、二代将軍徳川秀忠の命で一里塚が設置されてもいる(『東照宮御実記』)。なお、一里塚の設置自体は、織田信長から始まるようだ。*武部健一『道Ⅱ』(ものと人間の文化史116-Ⅱ、2003年、法政大学出版局、111頁)


 江戸時代の時間における「点」の概念の欠如というか曖昧さは、江戸の時刻制からも分かる。十二の干支で名付けられた「時」も「刻」も、時刻(時点)と時間(時間帯)の双方の意味を持っていた。では、空間における「点」の概念は、どこまであったのだろうか、という疑問になる。


 道の起点については、周知のように、江戸時代の五街道の起点は日本橋であった。しかし、日本橋は、長さ28間(約51m)あり、日本橋のどこが起点なのか、ということが当然気になる。

明治6年に、「東京は日本橋、京都は三条橋の中央をもって国内諸街道の元標となす」と定められたが、江戸時代は、日本橋のどこを起点とするかは明確でなかった。*児玉幸多編『日本史百科 宿場』(熊井保執筆項、1999年、東京堂出版、54頁)


 『東海道絵図』(天和元年、1681年)によると、一里塚の位置に、たとえば「江戸より凡三里、京より凡百十七里」というように、合計すれば必ず一二〇里になるように記載があったという。江戸-京間は120里とされたわけだが、江戸後期の測量(公称値)は、126里6町1間(495.495km)であり、明治初期の測量では、130里30町37間3分(513.890km)だった。*武部健一『道Ⅱ』(116頁)


 明治初期の場合は、日本橋の中央の点から測量したのだろうが、間(1.8m)単位まで測量している江戸後期の起点がどこであったのかは気になるところである。

その計測法は、基本的に伊能忠敬の方法、つまり、歩測(歩数×歩幅)であって、間竿も間縄も使わなかったという。*武部健一『道Ⅱ』(75頁)


 ともあれ、江戸-京間、およそ500kmとすると、宿場は、日本橋と三条大橋の間に、品川宿から大津宿まで53あったから、宿場間の距離の平均は、約9kmとなる。(500÷54=9.259・・・。53ではなく54で割る植木算のケースです。あ、それから、算数では、「距離」と「道のり」の区別をうるさく言うが、数学や世間では道のりの意味で距離という言葉を使う。ここでも、距離は厳密に言えば道のりのことです。)

江戸時代の地図には、宿場間の距離が記されていて、たとえば、「川崎宿 江戸江四里半 品川宿江二里半 神奈川宿江二里半」とあり、川崎宿は、品川宿と神奈川宿の中間に位置し、それぞれの宿までの距離が二里半だとわかる。*武部健一『道Ⅱ』(81頁)

 では、この宿場間の距離とは、宿場のどの点からどの点までの距離なのだろうか。


 村と村の間の距離については、村境から村境までであった。たとえば、「八幡塚村境より市場村境迄 往還長千三百七拾壱間 (略) 市場村境より生麦村境迄 往還長七百四拾八間 (略)」とある。*武部健一『道Ⅱ』(81頁)

 では、宿場間の距離も宿場の端から次の宿場の端までであろうか。

そうではなかった。

 ちなみに、宿場町の入口は、道を直角に曲げて、宿場を見通せないようになっていた。城下町の造りにならったもので、これを枡形という。*芳賀登『記録・都市生活史(11)宿場町』(1977年、柳原書店、22頁)

 東海道のひとつの宿場町の平均の長さ(街道に沿った旅籠の町並)は、約2kmだった。つまり、東海道全体では、町並みの合計は約100kmとなり、東海道500kmのうち5分の一は、宿場内の距離ということになる。*出典手元に見当たらず。

 

 宿場間の距離が宿場の端から次の宿場の端まででは、その合計と東海道百二十六里余(公称値)との誤差が大きくなり過ぎるし、そういうことはなかった。宿場の中心に問屋場があり、その近くに高札場があり、この高札場と高札場の間の距離が宿場間の距離であった。高札は、幕府の法令や禁令を板札に墨書したものだが、人馬の賃銭を記す高札もあり、旅人は、高札場の傍らの問屋場で馬や籠を乗り降りして、賃銭を支払った。宿場間の距離は、乗馬料金の計算のためにこそ必要だったのだろう。

 高札場は幅5mほどあったから、数学的には、距離測定の起点は、高札場のどの点からということが気になるが、まぁ、高札場の真ん中か、端のどちらかだろう。


 つまり、宿場町は、町を貫いて街道が通り、枡形で両端を区切られた町の中央辺りに高札場があったが、村は、街道から脇道に逸れて入ったところに村境があってそこから村が始まった。

 だから「AからBまで2里」というとき、江戸時代においては、AやBが宿場町であった場合は、高札場の地点を指し、村であった場合は、村境の地点を指すのであった。(家々が凝集している日本の西半分の村落では村内に高札場があったが、そこは起点にはならなかったようだ。)


 では、日本橋の場合はどうなるのか。

 日本橋の高札場は、日本橋の南側の西に存在し、安藤広重の『東海道五十三次 日本橋』では、画面の左下方に描かれている。宿場間の距離の起点が高札場であるなら、日本橋の起点も、その高札場と思いたくなる。

しかし、日本橋から南に延びる東海道の起点がこの高札場だとしても、日本橋から北に延びる中山道の起点は、この高札場にはならないだろう。ここから歩測を始めて日本橋も中山道の道のりの中に含めるとは思えない。

東海道百二十六里余の始まりは、日本橋が終ったところ、つまり日本橋の橋の端、というように、村境の場合と同じように、起点を考えたのではなかろうか。

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http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25474267&comment_count=1&comm_id=105236


 スミレ問題とは、けっきょく何だったのか、どういう問題だったのかを考え、ネット文化の前進にちょっと貢献したいと思います。


 スミレ問題として、私が考えるのは、次のような問題です。

(1) 47歳の男が、18歳美少女・大学生を自称して、発言した。

(2) 彼の発言内容やその正体に疑問・批判を投げかける発言者に対しては、自身のアカウントへのアクセスを不能にし、さらには、警察のスパイ、CIAの手先、右翼暴力団などと罵倒した。また、自分は「躁鬱の精神障害者」であり、そういう自分を「いじめる」発言は「傷害罪」であるとも泣きを入れた。

(3) そして、自ら問題提起し、何人もの発言があったトピやコミュニティを削除し、証拠を隠滅してしまう。しかし、幾つか、削除できなくなって、残っているトピもあります。

(4) 彼は、スミレを名乗る前には、レイカを、現在はユリナを名乗って、マイミクに何百人をも集めている。スミレ、ユリナの他に、現在も数名のアカウントを所有している。


 さて、何がどのように問題なのでしょうか?


 いくつもの行為がmixi規約に明らかに違反していますが、mixi規約の存立根拠自体を問うことも含めて、議論できたらと思います。


 で、先ず問題提起ですが、(1)について、「ネット人格」は許されるという意見も一部にはあるようです。

 しかし、私はそうは考えません。


 「実名」「匿名」「偽名」と分類するなら、彼の行為は、匿名発言ではなく、偽名発言です。

 私は、匿名発言は、ハンドル名で人格の一貫性を担保しようが、「名無しさん」の完全匿名であろうが、ネットでは許されると思っています。むしろ、ネットでの発言は、「言説が全て」「言説イノチ」であって、リアル世界での肩書きは不要だとさえ思っています。

 しかし、スミレ氏がやろうとしたことは、自らの言説を「18歳美少女」というリアル人格を偽装することで、付加価値を付けることでした。

 彼の、マルクス主義関係の発言は、20年前30年前、いや40年前にすでに聞いた話が中心になっていました。

50代40代の人間が発言するなら、何の進歩も無い奴め、いったいこの数十年間何を考えてきたのか、とそのシーラカンス振りに唖然とするだけだったのですが、これが18歳大学1年生の発言となると、いったいどういう突然変異で、こういう発言をする少年少女が生れたのかと俄然興味津々になったのでした。(スミレ嬢によれば、大学教授の父親による小学校時代からの早期天才教育という話だったのですが。)


というわけで、第一の問題は、「18歳美少女スミレ」なる人格は、言説それ自体の価値で勝負しようとするネット人格ではなく、リアル人格を偽装することで、発言に付加価値を付けようとしたインチキ比内鳥だったということです。


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 ある高名なキリスト教学者に、クリスチャンの人は神の存在を信じているのですか、と尋ねたことがある。(いやいや神をも畏れぬ質問ではあった。)

 しかし、そのキリスト教学者(自らプロテスタントの信者ですが)の答の方がびっくりするものであった。

 神など存在しませんよ、と。

「神など存在しないと、はっきり正直に言う方が、はるかにクリスチャンらしいでしょう。そう言われてほっとしたクリスチャンは多いです。入信のときは信じていても、5年10年そのまま信じている人はいない」


 神は信じられないが、この人は信じられると思った。


 同じようなことが仏教では言えないのだろうか。

 私が最初に仏教(というか禅)に関心を持ったのは、『臨済録』の、「仏に逢ったら仏を殺せ」だった。(今は、臨済宗のケレンは、肌が合わないと感じているが。)

 近代の仏教学では、法華経や阿弥陀経、華厳経などすべての経典は、釈迦死後数百年から千年余の間に創作されたものが分かっている。さらには、「一切衆生悉有仏性」という本覚思想は、釈迦が説いたものではなく、釈迦が批判した古代インドの宗教と通ずる考えであると説く学者もいる。(私は、この説にかなり納得できる。)

 時代を経るにつれ、仏教の中には、仏教以前の宗教的要素がどんどん混入してきて、釈迦が批判したものが釈迦の名の下に主張されるようになってきたらしい。

 仏教信者は二千年余り、釈迦が言わなかったことを釈迦の名の下に信じてきたようだ。

(釈迦の言説そのものは、同時代の直接の聞き書きとしても残っていないから、釈迦は何を言ったかはわからないが、釈迦が何を言わなかったかは、100%近い確率で言いうると思う。)

 こういう人間の在りかたは実に興味深いし、釈迦が言った言わないに関係なく「菩薩行」を実践した僧は尊敬できると思っている。(それは仏教徒に限らない。キリスト者でも、マルクス主義者でも。)

 

 私は、仏や悟りの存在も、悟ったと称する僧も信じられないが、悟りを求める修行僧は信じられると思っているし、浄土の存在は信じられないが、浄土に救いを求める人間を、信じられないとは言えないと思っている。


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