※2022.1.19 再掲&一部修正

















遥か昔のこと。




「蘭千代、飯できたか?」


男はゆっくりと、どこか覇気の感じられないような低い声で尋ねた。
質問が終わるや否や、首を傾けて外を見る。
ほんの少し前までは鮮やかな赤や黄で彩られていたはずの木が、寂しそうな様相でこちらを見ていた。


「もう少しですよ、藤兵衛兄さん。ちゃんと温かいものを作ってますから。待っていてくださいね。」


女は振り返ってそう言うと、すぐに台所に向き直した。汁物をかき混ぜ、仕上げに移ったようだ。
顔の横にまっすぐ垂らした髪が邪魔になったのか、女が軽く頭を振る。
頭の後ろで結ったほうの髪が、まるで馬の尻尾かのように大きく揺れた。

男は木に目を向けたまま、女の声を背中で受け止める。
重い目が疼いているのか、男は大きな目の下にこさえた大きな隈を、力強く擦っていた。

男の名は、野崎藤兵衛。
華奢ながら凛々しい蘭千代と対照的に、色白でやせ細っているという印象を与える、蘭千代の兄だった。







季節の変わり目は商売時だ。誰も彼もが体の変調を訴え、俺を訪ねてくる。
そうして俺はさも心配そうな顔をし、低い声を少しだけ高くして問いかけるのだ。
喉が痛むのかい? 悪寒がするのかい? ああ、そりゃあ大変だ。でもいい薬があるんだよ。

そうやって俺はまた笑顔になる。
大きな目の横に、小さな皺を作りながら。
心配いらないよ。この薬を飲めばいいんだ。それは言葉にせず、表情で訴える。
そうすると客は安心し、嬉しそうに金を落とすのだ。


「皮肉な商売ですよね」


そうやって蘭千代に言われたことがある。
ああ、妹の言うとおり、寂しい商売だ。病人が増えれば増えるだけ、俺の懐が温かくなる。
俺は手にした金を見て溜息をついた。
心苦しさはとうの昔に無くしている。これはそういう商売なのだと、割り切っている。
だが、一抹の空しさだけは、ふとした時に感じることがあった。
そう、こんな季節の変わり目に、心がさあっと、寒くなるのだ。


「寒いな」


客とのやりとりを思い出したからか、思わず声に出してしまった。
そうしてまた、自分の体も冷えていることに気づく。
報いかもしれないな。
この有り様はきっと、俺の行いの報いなのだ。

ゆっくりと起き上りながら、長らく世話になっている布団に目をやる。
元々細かった体が、さらに細くなっているようだ。
報い。
これは、病人を食い物にしてきた報いだ。
そして――


「できましたよ。ごめんなさい。待たせてしまいましいたね」


目の前に出された汁が湯気を立てている。
嬉々として立ち上るその湯気の向こうに、申し訳なさそうな顔が揺れる。
寒いと呟いた俺の言葉を、飯の催促だと受け取ったようだ。

俺は思わず目を逸らした。
ああ、また俺はこいつを傷つけてしまったのだ。
俺が病に伏してから、何度この顔を見ただろうか。
いつも明るく、朗らかな顔をしていたのに。

これも報い。
そう、報いなのだ。
これは、病人を食い物にしてきた報い。
そして――




蘭千代に呪いをかけた、報いなのだ。







きっかけの日を思い出す。全てはあの瞬間から始まったのだ。


蘭千代には、表と裏の顔があった。
商人の妹として店を守り、亡き両親に替わり家を守る、静かだが少々気の強い女。
それが表向きの顔。華奢な体でよく働くねえと、客からの評判も良かった。


「経路は確保してあります。兄さん、こっちへ」


夜も更けた頃になると、その顔は変わった。
手慣れた動作で鍵を開け、扉を開く。
奥へ進むほど蔵の中は埃っぽく、あまり人の出入りは無いようだった。

(それでは、依頼の書物があるか確認してください。私は表を見張っています)
目でそう呟きながら、蘭千代は扉へと戻っていく。
その足は、決して音を立てなかった。

忍び。
それが蘭千代の、裏の顔だった。
闇社会に生き、決して身分を明かすことのない存在。
商いの手伝いは仮の姿であり、これこそが蘭千代の本当の生業。
そしてその生業を知る者は、両親亡き今、兄だけとなった。


「今回の依頼は、薬についての書物を盗み出すこと。
兄さんなら、依頼された書物について、的確に選別できるはずです」


そんなふうに言いくるめられ、俺はここに連れてこられた。
そう、俺は忍びではない。蘭千代は忍びだが、俺はただの薬屋なのだ。

蘭千代に指定された書物は、毒物の精製方法に関するものだった。
なぜそれが必要なのか、誰がそれを欲しているのか、あえて聞かなかった。
聞く意味もないと思っていた。
俺はただ、蘭千代の助けになれば、それで良かった。
蘭千代の役に立てれば、喜ぶ顔を見ることができれば、それで良かったのだ。

この時までは――。




「それ」が視界の端に入ったのは、ほんの一瞬だったのだ。
だがその一瞬、俺の心臓が大きく高鳴った。

見つけてしまった。目的の書物から少し離れたところに、その書物はあった。噂でしか聞いたことのない、存在すら疑っていた物だった。
その姿形は何の変哲もなかった。だが、同時に異様な存在感を放っていた。
それに手をかけた瞬間この蔵が崩れ落ちるのではと思うほど、確固たる存在として、その書物はそこにあったのだ。

蘭千代は表の様子に神経を張っている。俺の様子には気づかない。今なら出来る。今なら、今なら……。

俺は、急激な喉の渇きを感じながら、その書物を懐に忍ばせ、そして、この時、俺達の未来が変わったのだ。








いつの頃からだろう。俺が蘭千代に、特別な思いを抱くようになったのは。

蘭千代は紛れも無い俺の妹で、小さな頃からずっと一緒だった。
妹のくせに、泣き虫だった兄の俺を、いつも庇い、助けてくれた。

蘭千代はいつも凛としていて、賢かった。
華奢ではあったが、その凛とした雰囲気が、ある種の逞しさを彼女に与えていた。

だが同時に、人には見せない脆さがあることを、俺は知っていた。
蘭千代は出来過ぎた妹だったが、ただ一つ、致命的に脆い部分があった。
幼い頃から常に一緒に居た俺だから、それに気づくことができた。

その脆さが愛おしかった。
そして、その原因を作る者が、憎かった。
蘭千代の心を惑わすそいつが、ただただ憎かった。
どうして俺じゃないんだと、何度も言葉に出そうになった。
俺だったら。
俺だったらお前のことを。

その時にはもう、蘭千代は俺の中で、妹という存在ではなくなっていた。








今日が決行の日だ。

これまで、幾日にも渡って準備をしてきた。今日がその最後の日となるのだ。
不思議と気持ちは落ち着いていた。この幾日の間に、感情の昂りは全て使い果たしていた。

以前、愛と憎しみは紙一重だと聞いたことがある。
その時は「そんなことあるもんか」と思った。だが、今ならとても納得できる。
自分の気持ちに明らかな変化が起こっているのだ。
そしてその途轍もない変化を、俺は今、至極自然に受け入れている。

俺は、今までの俺ではないのだ。
もう、あの頃の俺には戻れない。泣き虫だった頃。楽しく薬を売っていた頃。
どれも、もう過去の自分だ。けどそれでいい。俺はもう、戻らない。

一歩一歩、歩みを進める。
俺の心をまさぐるように、風が静かに吹いていた。
これだから季節の変わり目は嫌いだ。
心がさあっと、寒くなりやがる。



蘭千代は背中を向けて台所に立っていたが、俺の気配を感じたのか、静かにこちらを振り向いた。


「あれ、兄さん、体の調子は良いのですか?」


心臓が高鳴る。


「ああ、大丈夫だよ」


もう戻れない。


「無理しないでくださいね。季節の変わり目ですから」


これが最後だ。


「蘭千代」


「はい?」




俺は後ろ手に構えていた包丁を前に突き出した。


「死のう」




















「松之助!」


その時、後ろから怒号が響いた。
そうして俺は不甲斐なく、その声に反応し、振り返ってしまったのだ。



「藤兵衛兄さん……」


そこに居たのは、俺と蘭千代の兄であり、そして俺が最も憎む男だった。
ゆっくりと、どこか覇気の感じられないような喋り方をする兄が、ここまでの怒号を発したのは初めてだった。


その時、目の前が回転した。
隙を突いた蘭千代が俺を転ばせたのだと、すぐに気づいた。
妹は忍びなのだ。無防備な男一人倒すことなど、造作も無いことなのだ。

俺は上から組み敷かれ、包丁はあえなく蘭千代の手に渡った。




「藤兵衛兄さん、どうしたんだい。出かけていたんじゃなかったのかい」


「松之助。俺は、ゆきさんに会っていたよ。ゆきさんは俺に相談してきた、お前の部屋にこの書があったと」


藤兵衛は見慣れた書物を目の前に突き出した。ああ、間違いない。あの書物だ。そうか、ゆきが気づいたのか。
ふと俺は、汁から立ち上る湯気の向こうで申し訳無さそうにしていたゆきの顔を思い出した。
明るく朗らかな妻だったゆきを、最後の最後まで、傷つけ続けてしまった。本当に、駄目な旦那だ。


「俺も噂で聞いたことがある。これは、呪いを扱った書だな。
内容は難しくてわからないところもあったが、お前の書き込みから、蘭千代に何かをしようとしていたことは解読できた。そして、今日が最後の日だとも。だから俺は、すぐにここに戻ってきたよ」


藤兵衛が矢継ぎ早に喋った。その声は微かに震えていた。


「なぜだ、なぜこんなことをしたんだ松之助。教えてくれ、どうして」


そこで声は途切れた。兄の頬に、一筋の涙が伝った。



その涙を見て、少しばかり俺は動揺した。
だが、もう戻ることはできない。今日が最後の日なのだ。




「……藤兵衛兄さん、俺はね、蘭千代が好きだったんだよ」



微かに、だが確かに、蘭千代が震えた。


「妹としてじゃない、女として、俺は蘭千代のことが好きになっていた。ゆきには申し訳ないと思っていたよ。でも止められなかった。俺はもちろん、兄として、ゆきの旦那として気持ちを隠したよ。隠して隠して……、でもある日、俺は知ってしまった」


「やめて!!」


蘭千代の叫び声が響く。

俺は続けた。



「俺が蘭千代のことを好きだったのと同じように、蘭千代も藤兵衛兄さんのことを好きだったのさ」


俺の手に温かい雫が落ちてきた。


「その時に、何かが崩れ落ちたような気がしたんだ。俺はずっと、藤兵衛兄さんのことが妬ましかった。羨ましかった。俺には無いものをたくさん持っていて、いつでも俺の一歩先を行く。何かを手に入れようと思ったら、いつも先に兄さんが手に入れる。それが本当に辛かったよ」


藤兵衛はこっちを見たまま動かない。時折、俺を組み敷いたままの蘭千代にも目をやっているようだった。


「だからね、俺は愕然としたよ。蘭千代まで取られてしまったのだと。でも、俺は我慢したさ。人並みの理性はあったしね。兄として、蘭千代の役に立てれば、喜ぶ顔を見ることが出来れば、それでいいと思っていたよ。その呪いの書に出会うまでは」


藤兵衛は呪いの書に目を向けた。蘭千代もまた、その書へ目線を向ける気配がした。


「俺は、その書にある呪いを実行に移した。俺は、蘭千代を手に入れることはできない。でも、藤兵衛兄さん、俺はあんたに蘭千代を取られることが、一番憎い。だからこの呪いを蘭千代にかけた。蘭千代と藤兵衛兄さんが、永遠に結ばれることのない、呪いを」


「松之助! やめて!!」


蘭千代が叫ぶ。その勢いで、少しだけ力が緩んだ。今だ。俺は蘭千代を突き飛ばし、奪われた包丁を再び手にした。そして――













俺はその刃で蘭千代を貫き、そして、俺自身の腹へも、振り下ろした。










「松之助ええええええええええ!」


霞む視界の中、駆け寄る藤兵衛が見えた。途中、藤兵衛は少しだけ、仰け反ったように感じた。



「松之助、どうして、どうしてこんな……!」


泣きじゃくる藤兵衛をよそに、俺は最期の力でしゃべり続けた。


「……兄さん、今、少しだけ、仰け反ったように見えたよ。何かが、前から、ぶつかってきたように、思わなかったかい?」


藤兵衛は何も答えなかった。ただただ声にならない声を、喉の奥から生み出していた。


「それはね、蘭千代の、魂さ。俺がかけた、呪いはね。未来永劫、続くんだ。俺は、生まれ変わった蘭千代が、生まれ変わった兄さんと、出会うのも嫌なんだ。」


俺の横にいる蘭千代は動かなかった。生命と魂が両方空っぽになった妹は、完全に事切れていた。


「だからね、蘭千代の魂を、兄さんの中に、閉じ込めたよ。兄さんがどんなに、生まれ変わっても、蘭千代は蘭千代のまま、兄さんの中に、閉じ込められ続けるんだ。」


藤兵衛は俺を見ながら泣いている。その顔は、蘭千代によく似ていた。


「わかった? これでもう、2人が出会うことはできない。もし蘭千代の魂が、何かの拍子に表に出てきても、その間、兄さんは眠るんだ。2人が同時に、存在することはできない。言葉を交わすことができない。姿を見ることも、触れることもできない」


俺は笑顔でしゃべり続けた。大きな目の横に、小さな皺を作りながら。


「でも俺はね、生まれ変わるよ。生まれ変わって、兄さんの中に閉じ込められた、蘭千代に、会いに行く。何度死んでも、何度も、生まれ変わって、ずっと、ずっと、未来、永劫、蘭千代に、会いに、いくよ。会いに……、ずっと……」


最期の俺は、人生で一番の笑顔だったように思う。笑顔の俺を見る藤兵衛は、目を見開いて泣いていた。大きな目の下にこさえた大きな隈が、とめどなく溢れる涙で隠れていた。



















男はパソコンのキーボードを叩き終わると、目の隈を擦りながら、大きく伸びをした。
夜中まで仕事をしていると、肩が凝る。
男は肩をぐるぐると回した後、再びパソコンに向き直り、無意識に軽く頭を振っていた。

都会に引っ越して来てからもう何年も経つ。
いつも外から聞こえてくる救急車の音にはすっかり慣れ、窓の外に目を向けることもない。
酔っ払いの怒鳴り声にも、物騒な事件の報道にも、驚かされることはない。



ただ、物心ついてからずっと、包丁は、少し苦手だった。