※本記事は、特定の方を取り上げることを目的としたものではなく
わたくしの気づきと祈りを記録したものです。
まず初めに
このたびお亡くなりになられた御方へ
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
突然の訃報を前に
まだ現実として受け止めきれない気持ちと
深い哀しみが胸の奥に広がってやみません。
個人名に直接触れることは控えさせていただきますが、
その御方が、今も多くの方に多大なる影響を与えていることは間違いありません。
◆ 名刺を手に取った日
先月、何かに導かれるように
久しぶりにある名刺を手に取りました。
後からその日が、
その方のお誕生日であったことを知り、
「なんだろう」と妙な感覚が心に残ったのを覚えています。
そして、ちょうど一ヶ月後の今日
その方の訃報を知ったのです。
衝撃と悲しみと同時に
これまでの幾重もの同じような体験が蘇ってきました。
「そろそろ連絡を取ってみたい」と思った矢先の突然の訃報。
「今日、あの人に会いそうな気がする」と感じていた人との、思いがけない再会。
いくつもの"偶然のような一致"を重ねてきた中で、
私は少しずつ
「見えない世界からのサイン」の存在を
自然と受け入れるようになっていました。
いつもお客様にはお伝えしていますが、
私たちの魂は深層部でつながっており、
何かを「受信する力」は誰の中にも宿っているのです。
◆ 死は、終わりではない
「死」は、確かに物理的な別れであり深い悲しみを伴います。
いっぽうで、
「死」は決して終わりではなく、
新しいかたちでの交流の始まりなのかもしれません。
ふとした瞬間に感じる気配やサイン。
言葉にならないまなざし。
そして胸の奥に触れてくる感覚。
それらは私たちに
「いまここに在る命」をどう生きるかを
問いかけているように思えてなりません。
人の生きた証は、
記憶や感謝、そして影響として残り続けます。
直接会えなくなっても、
心の中で「ありがとう」を送り続けることは、
魂と魂の間に静かに流れる
愛のひとつの形だと思うのです。
◆ 感受性の強まりに戸惑いながら
最近では、
未来の出来事や他者の感情を事前に受け取るような
“予知的感受性”が、
自分の中でひとつの輪郭を帯び始めていて
時に、わたしのなかで
大きな戸惑いや怖れを生むこともあります。
未来の気配や、
誰かの状態が心に流れ込んでくるような感覚。
霊感という言葉では収まりきらない、
「魂の知覚」という尊い何か。
どんなときも
哀しみに呑まれすぎず
でも感受性を閉じることもせず
その声に耳を澄ませることは
私にとって「生きている意味」と向き合う行為でもあります。
◆ 生と死のあわいに在るもの
生と死のあわいには、確かに“何か”が在ります。
その目に見えない声に耳を澄ませながら、
与えられた役割を丁寧に果たしていくことこそ
今、生かされている者にできるささやかな
責任なのだと思います。
生きている私たちが
今在る命をどう生きるか
問い直す時間となれば幸いです
あらためまして
故人様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
a.Michell