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来たる艱難期 第3部A パート14
艱難期の始まり (ヨハネの黙示録8章1節~11章14節 )
このいくつかの箇所を通して(そして実際、聖書全体を通して)、
神への情熱があからさまであろうと暗黙的であろうと大いに称賛される一方で、
私たちの主に対する独りよがりは(必然的で付随するこの世への愛とともに)
特に厳しく非難されます。独りよがりは、教会全体にとっても、
特に個々のクリスチャンにとっても深刻な問題です。
なぜなら、私たちが本当にイエス・キリストを何よりも愛しているか?
あるいは、イエス・キリストよりも世を愛しているかのどちらか?だからです。
そして、もし私たちが主よりも世を愛しているならば、
少なくとも私たちの信仰を非常にもろく脆弱なものにしてしまい、
艱難期は言うに及ばず、深刻な試練や苦難に耐えられなくなってしまう危険性があります。
(マタイ13章20-21節;マルコ4章16-17節; ルカ8章13節)。
ここで述べられている神への情熱は、
主に感情的な問題ではないということを指摘しておきます。
確かに、神に対する真の情熱には感情が伴い、
本当にイエス・キリストを心と魂と思いと力を尽くして愛している人にとっては、
確かにとてつもない肯定的な感情を経験することができます。
しかし、この純粋な感情は、決意、献身、信仰、忠実さに続くものです。
このような本物の感動と情熱は、真の弟子としてイエス・キリストに断固として
一貫して従うことの結果であって、世よりも神を愛するための手段ではありません。
人は、感情を表に出すことによって、世よりも神を愛するようになるわけではありません。
週に1時間や2時間、泣いたり、嘆いたり、熱唱したり、祈ったりすることを、
神の御言葉を読み、学び、教えられ、それを大切にし、熟考し、
クリスチャンとしての歩みとミニストリーの生活の中で熱心に実践することに
置き換えることはできません。
聖書を通して主を知り、個人的な心のこもった祈りの中で主と交わり、
主が私たちに生きさせたいと願っておられる生活を送ることによって主に従い、
主が割り当てられた賜物と務めに従って、
主のからだである私たちの仲間のクリスチャンに奉仕することによって主を敬うのです。
真の熱心とは、見せかけの熱心ではなく、(ローマ10章2節参照)
人間の内側に働く真理の力にあり、(エペソ3章16-19節)
信仰と希望と愛の行いに表れます。(第一テサロニケ1章3節)
なぜなら、私たちの神は、これらの感情が本当に本物で、深く根ざしているのか、
それとも単なる一過性のパフォーマンスに過ぎないのかを世に、天の軍勢に、
そして私たちにも示すために、それが正真正銘のものであるかを試される方だからです。
(詩篇7篇9節;エレミヤ11章20節;17章10節,20章12節;
ローマ8章27節; 第一テサロニケ2章4節;黙示録2章23節)
イエスのたとえ話に出てくる兄のように、
父の呼びかけに感動と熱意をもって応えながらも、
父のみこころにかなった大変な仕事に手をつけないようでは意味がありません。
この地上の人生であるシオンへの巡礼を毅然として進んでいる
イエス・キリストの真の弟子たちにとって、本物の感動は、
日々神により近づいていくことから自然に湧き出てくるものです。
(創世記47章9節;詩篇23篇, 39篇12節,84篇5-7節;
マタイ7章14節;ヨハネ14章6節;使徒行伝19章9節,19章23節;
ユダの野にあったときによんだダビデの歌
神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、
わが魂はあなたをかわき望む。
水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、
聖所にあって目をあなたに注いだ。
あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、
わがくちびるはあなたをほめたたえる。
わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、
わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、
わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる。
あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
わたしの魂はあなたにすがりつき、
あなたの右の手はわたしをささえられる。
(詩篇 63篇1-8節)
この言葉は、人生の重圧にもかかわらず、
全身全霊で神を真に愛した人の言葉であり、
また、同じことを純粋に志す私たちのための言葉でもあります。
イエス・キリストに心から従い、この世が干乾び渇いた土地であることを知る私たちは、
私たちの目が見ているこの過ぎ去る堕落ではなく、
来るべきいのちに望みを置いています。
私達はユダの砂漠でダビデと共に、モーセ、カレブ、ヨシュアと共にシナイの荒野で、
アブラハム、イサク、ヨセフと共にこの地を旅しながら、
主を忍耐をもって待ち、忠実に仕えているのです。
(第一コリント1章7節; ピリピ3章20節; 第一テサロニケ1章10節;
第二テモテ4章8節; テトス2章13節; ヘブル9章28節;ヤコブ5章7-11節;
ローマ8章23-25節; ガラテヤ5章5節; 第一テモテ6章14節参照)
主の栄光の再臨と栄光の勝利を待ち望みつつ、主を命以上に愛し、
(第二コリント5章8節; ピリピ1章21節: ヘブル11章24-27節と第一ペテロ1章8節も参照)
この世に夢中にならないようにすることです。
しかし、世に過度にとらわれ、感情を時折刺激されるだけの人にとっては、
イエスへの献身に対する妥協と独りよがりが、
愛と信仰を非常に気まぐれなものにしてしまうことは避けられません。
クリスチャン生活の目標をすでに達成したと思っている人は、
自分自身を欺いているにすぎず、(第一コリント4章8節: ピリピ3章12-14節も参照)
愛と忠誠を表明しても、たいていは雲や霧のようなものにすぎないのです。
エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。
ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。
あなたがたの愛はあしたの雲のごとく、
また、たちまち消える露のようなものである。
それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、
わが口の言葉をもって彼らを殺した。
わがさばきは現れ出る光のようだ。
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
(ホセア6章4-6節)
選択はこれです:
私たちは、この世のすべてのものより、私たちの主であるイエスを愛し、
尊び、重んじるのか、(詩篇16篇2節参照)、
それとも、この世を優先し、
その思い煩いや心配事、喜びをすべて優先するのか。
私たちが真理を認め、知れば知るほど、この世は愛おしくなくなります。
マタイ10章37-39節,16章24-26節; ルカ14章25-33節参照)
しかし、霊的な成長、歩み、ミニストリー、
そしてそこから生まれる主との関係を深め続けることを怠れば怠るほど、
私たちは自己満足に陥り、生ぬるくなります。
実のところ、私たちを買い取ってくださり、永遠に共にいてくださり、
どんなものよりも愛していると言ってくださっている主にではなく、
このはかない世界に慰めや自己定義、安心を求めるのは愚かなことです。
逆に、クリスチャンの自己満足は、私たちが関心を持つべき唯一のものを当然視し、
(すなわち、イエス・キリストとの関係)
その代わりに、信仰によって気にかけなくてよいこの世のものを心配します:
神は、神を愛する者たち、
すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、
万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
(ローマ8章28節)
それだから、あなたがたに言っておく。
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、
何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。
まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、
神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、
それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、
あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。
あなたがたの天の父は、これらのものが、
ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
(マタイ6章25-34節)
情熱と自己満足のどちらを選ぶかは、
この短い巡礼の旅路の中で、日々、選択をしている(あるいは、選択し損なっている)
私たちの優先順位の問題に帰結します。
主が私たちに呼びかけておられるように、クリスチャン生活を前進させることなく、
安穏としている人々には、霊的な危険があります。
私たちは、多くのユダヤ人が艱難の始まりの日に神のもとに戻ることを見てきました。
ラオデキヤ時代の私たちは、将来そのような圧力が始まる前に、
彼らの勇気と熱意を見習うのが最善でしょう。
主は私たちの戸口にいて、戸を叩いておられるのですから。
今こそ立ち上がり、主を迎え入れる時なのです。
--パート15に続く
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過去記事の「ひとしずく」も、どうぞお役立てくださることをおすすめします
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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想、またオーディオクラスに関心のある方、
shizuku365@proton.me までご連絡ください。
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見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしはその中にはいって彼と食を共にし、
彼もまたわたしと食を共にするであろう。
(黙示録3:20)
感謝します
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気温があがってくると、段々と雑草や庭木の成長も勢いを増してきていますね
梅雨に入る前に、長女さんが庭木の剪定をしてくれました
どんどん始めると、裏の空き家の庭の雑草も気になってきます
手に負えなくなる前に、家の庭にまで入り込まない内に、
裏の空き家の庭の背の高さまである雑草を、フェンスに添って草むしりをしてくれました
なかなか手ごわくて2時間もかかったようです
お疲れ様、ありがとう