”(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1パート4)この世ではなやみがある” | sarah‐mercy

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(一年前の記事転載)

右差し(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1 パート3)からの続きです

 

黙示録シリーズ・クラス1 パート4

 

(4月29日 午前中のクラス)

 

黙示録に抵抗を感じる人がいますが、

聖書には

「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、

 その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。」(黙示録1章3節)

とあります。

黙示録は、この世界が様々な恐ろしい災害に遭うことを語っているので、

私たちもその影響を受けることは間違いないと思います。

しかし、神はこれらの災難を私たちを清めるためにお使いになられます。

 

そして聖書を読めばわかることですが、神は御自分の民の悔い改めのために、

異邦人を使うことが多々あるのです。

イスラエルの民は幾度となく神から離れ、異教の宗教、

偶像崇拝にふけっていたことがありましたが、

神はアッシリアやバビロンといった異邦人を使って、

イスラエルの民が捕囚されるのを許されました。

それは民が悔い改めて真の神に立ち返ることが目的でした。

 

人間の歴史の最終段階においても、アンチ・キリストとその勢力を使って、

神様は、神の民が白く練り浄められることを望んでおられるのです。

 

ところでこの「患難」という言葉についてですが、

ギリシャ語で「θλίψις (スリプシス)」という言葉が使われています。

聖書のほかの箇所でこの言葉が使われているとことを見てみますと、

ヨハネ16章33節に、次のようにあります。

 

 これらのことをあなたがたに話したのは、

 わたしにあって平安を得るためである。

 あなたがたは、この世ではなやみ(スリプシス)がある。

 しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」

                             (ヨハネ16章33節)

 

 ここに「この世ではなやみがある」とありますが、

この「なやみ」というのが「スリプシス」です。

ストロング・コンコルダンスにある「スリプシスthlip'-sis G2346」の

定義は次のとおりです。

(文字通りの、または比喩的な圧力:患い、患うこと、

                苦悩、重荷を負う、迫害、試練、悩み)

 

患難や悩みは私たちにとっては良いものには思えないかもしれませんが、

神は私たちの信仰を清め強めるためにこの患難や悩みを使われるのです。

この試練こそが、実は私たちを支える力となっており、

私たちを強め、来るべき患難に備えさせるために神が許されていることなのです。

しかしイエス様は、

「あなたがたは、この世ではなやみがある。

 しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と言って下さり、

主にあっての平安を与えて下さっています。

 

 そして、終わりの時の「かつてなく、今後もないような大患難」の患難についても

「スリプシス」というギリシャ語が用いられているのです。

 

 つまり、私たちが、今すでに通過している日頃の悩み(スリプシス)は、

世界全体が通過しようとしている大患難(大きなスリプシス)のための

備えとなっているということです。

まったく異なるテストとはならないわけです。

ですから、スリプシスを通して、私たちは成長しますし、備えられます。

そしてその最中に、イエス・キリストよりの平安を持つことができます。

それは今私たちが通過している悩みも、これから来るべき大患難においても、

同じ解決策、主イエス・キリストの内に宿ることです。

 

 もちろん、世界が崩壊していく中で、私たちは何の影響も受けないかというと、

もちろん影響はあるでしょう。

周りの人達が倒れたり、また災害を受けているなら、そうした周りの世界が変化するなら、

この肉体も精神も影響を受けることでしょう。

しかし、変わらないのは神よりの平安、神に対する信頼からくる平安です。

 

 しかし、あなたや私のいる環境は変わるかもしれません。

非常に苦しい状況になるかもしれません。

しかし、神は共にいて下さるのです。

詩篇91篇はその素晴らしい約束です。

 

   いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、

 全能者の陰にやどる人は 主に言うであろう、

 「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。

 主はあなたをかりゅうどのわなと、

 恐ろしい疫病から助け出されるからである。

 

 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。

 あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。

 そのまことは大盾、また小盾である。

 

 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。

 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。

 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、

 その災はあなたに近づくことはない。

 

 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。

 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、

  災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。

                               (詩篇 91篇1-10節)

 

 

 ところで、先述のヨハネの福音書の16章33節も、また詩篇91篇もそうなのですが、

もう一つ、エレミヤ書の次の箇所も同じ真理を示しています。

 

 これは、エレミヤが自分のための書記の仕事をしてくれているバルクに告げた言葉です。

エレミヤは、エルサレムの罪のゆえの裁きを宣告する預言を語っていました。

それを伝えると国の王やすべて王にへつらい服従している家臣らはエレミヤを非難し、

エレミヤもまたエレミヤを助けようとする者も命を危険にさらすことでした。

 

 しかし、神は、ご自分の民と世界を清めるために、

災いを下そうとしている時、それら物質的なものや、

周りのことに捉えられていてはいけない、

あなたへの報酬はあなたの命だと告げられているのです。

 

 預言者の言葉(真理)は、口には甘いけれども、腹には苦い、

それを生きるとなると容易ではない、ということです。

これは真理に生きようとする者達、すべてに対するチャレンジですね。

短いですから、エレミヤ書45章全部を引用します。

 

 ユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年に、ネリヤの子バルクがこれらの言葉を

 エレミヤの口述にしたがって書にしるした時、預言者エレミヤが彼に語った言葉、

 「バルクよ、イスラエルの神、主はあなたについてこう言われる、

 あなたはかつて、

 『ああ、わたしはわざわいだ、主がわたしの苦しみに悲しみをお加えになった。

 わたしは嘆き疲れて、安息が得られない』と言った。

 あなたはこう彼に言いなさい、

 主はこう言われる、

 見よ、わたしは自分で建てたものをこわし、自分で植えたものを抜いている――

 それは、この全地である。

 あなたは自分のために大いなる事を求めるのか、これを求めてはならない。

 見よ、わたしはすべての人に災を下そうとしている。

 しかしあなたの命はあなたの行くすべての所で、

 ぶんどり物としてあなたに与える と主は言われる」。

                          (エレミヤ 45章1-5節)

 

  さらに、主イエスは、この地上での命よりも、

魂が地獄に行かないように気をつけなさいと言われています。

 

 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。

 むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

                              (マタイの福音書 10章28節)

 

 後でさらにこのことについて触れると思いますが、

私たちは、主の約束の言葉に対してもっと完全な信頼をもって

寄りかかる必要があると思います。

それ以外に答えも道もない時が来ています。

眠っていて、”すべてが大丈夫だ"と偽りの平安のうちに盲目になっているなら別ですが。

 

皆さんは聖書の神の保護の約束を暗記していると思いますが、

私たちの保護はこれからの時代、

ますますそういった主の約束と主との交わりの中にあるのだということです。

患難を通して、また周りの滅びを通して、私たちにとって永遠のもの、

いつも頼りになるものとは、主ご自身なんだということを

私たちは実感して行くわけです。

神はそれをわからせようとして下さっているのです。

 

災いの中でも神さまが守って下さいます。

それは災いがないというわけではなく、災いの中で神は私たちを守られるのです。

そういう約束が聖書にいくつもあります。

そして私たちは、その約束に寄りかかるので患難の中でも進んで行けるのです。

しかし、私たちが肉的な力とか知恵とか経験や才能に頼っているなら、

それは尽きる時が来ます。あるいは通用しなくなります。

 

でも、元々私たちが頼っているものが主の力であるなら、進み続けます。

主は何でもできます。

紅海を分け、荒野でマナを降らせます。

私たちはこの偉大な神の言葉に従っているわけです。

ですから、何が起ってもあまり変わらないのです。

 

ただ、主が示された通りに従うというだけのことです。

なぜなら、私たちが主について行くのは、

自分の願いを果たそうとするものではないからです。

あーこんなことが起ったら私が計画していたことができなくなってしまう、

と憤慨しますか? そうではないですよね。

私たちはただ、主を信じ、主が示されたことだからそれに従う、

それを主が帰ってこられる時までやり続ける、それだけのことです。

それを日ごとに忠実にするだけです。

 

イエス様は、あなたは人から誉められるような偉業を成し遂げたからよくやったね、

とは言われないです。

私たちは主が自分に望まれていることを、心を尽くして主への愛ゆえに、今日、行います。

状況が変わり、プロジェクトや環境など全てが変ったとしても、

そこで主がまた示して下さったことに従うだけです。

 

私たちはこの地上では旅人であり寄留者です。

そして、日々、小さなことを忠実に行い、その中で喜びを見出すのです。

天地を造られた神は、この地上に降りてこられ、

私たちと同じように弱い体、トイレに行かなくてはいけない、汗を流し、体が汚れる、

疲れる、空腹になる、そういった体をまとわれて、

交通機関も整っていない時代、馬車にも乗らず、ほぼ徒歩での移動という状況の中、

歩んで下さいました。

 

しかし、その中にあってイエス様の行われたことというのは、

他の人とは全く違っていました。

「神の国が近づいた」という、全くこの世にはない命の種をまき続けるという

特別な仕事をされました。

この肉体をまとって、日ごとにコツコツと真理と愛の種をまき続けました。

私たちも同じです。

私たちは、イエス・キリストの御足の跡に踏み従うように召されている者たちです。

 

ですから、患難期前も患難期もあまり変わりないと思います。

ただ患難期には色々な面で困難があるわけです。

信仰を表明するのにも死を覚悟しなければならないかもしれません。

その患難期に比べたら今はまだ平和な時だと思います。

世界では色々なことが起って、もうすでに患難が始まったのではないかと

思わされるかもしれませんが、私はまだだと思います。

 

今はまだ、患難だからもう福音が伝えられないという時期ではないと思います。

今、盛んに一生懸命、福音を伝える機会として捉えて活動をしている人たちがいます。

主が帰って来られるまでの間、どう生きるかは、各自と主との関係によります。

自分に与えられた召しをどう果たすのか。

それぞれにタラントが授けられていますが、そのタラントをどう賢く最大限に使って、

主にお会いした時に、主よ、あなたから授かったタラントを

私は最大限に使わせていただきました。

これが私のベストでした、と言えたなら幸いです。

 

自分はこのタラントを浪費しているとわかっているなら、

今すぐそれをやめたらいいと思います。

”でも、いやーそれはそうなんだけど、それはやっぱりできないなー”

と言う人もいますから、

そういう人を、牧師や教師が首に縄をつけて従わせるわけには行きません。

神様でさえそうしないです。

ただ神の国が近づいている、それに対してあなたがたはどうしますか?と、

そういうことです。

 

私たちは信仰に立って御国のために戦うのです。

何が本当に価値ある投資なのかということをよく考えて、

各自が私の召しはこれだという大義と確信を持って、

主が帰って来られる時までそれを行い続けることができたなら、と思います。

 

右差し続く(ひとしずく・黙示録シリーズ・クラス1 パート5)麦と毒麦 

 

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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

「ひとしずく」の感想、関心のある方は、dorcas12@gmail.com へご連絡ください。

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三男さんがこんなことをポツリと話してくれました

職場にいる社員さんで、特に怒られるほどのミスをしているわけでもないのに

ある上司は理不尽にその人を怒るそうです

常にストレスを部下に吐き出すという感じなのです

(私は何か状況が変わることを祈っていました)

 

そんな日が続いていたのですが、時々会社に派遣の方が入って来るので

その社員さんは派遣さんの世話もしないといけないのです

自分が上司にきつい扱いをされていても、職場の環境が楽しいものでなくても

明るく、親切に丁寧に、派遣さんに接しているのを見て

三男さんは「偉いなぁと思う、自分には真似ができない」

仕事のことも、他人のこともあまり褒めることのない三男さんが、

つくづくそんなことを話すのです

 

どんな状況の中にいても、自分の アイデンティティーを持っている人と言うのは

口で「こうしなさい」と言わなくても、人の心を動かすものなのですね

つまり、その人の生き方そのものが語っているということです

私もそうありたいと学ばされるエピソードでした

因みにその上司の方は、別の部署に・・・

祈りは働きますね

 

あなたがたは、この世ではなやみがある。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている

 ヨハネ16章33節

 

感謝します

 

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(2019年5月ももちゃん)

 

 

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今日もありがとう~ラブラブ

(転載おわり)