~友人からのメール~
「主は道を開かれる」 パート4
(11月24日 東京での聖書クラス)
もし、時がすごく短いとしたらどうですか?今までと同じように生きますか?
イエス様は私たちのために血を流してくださった。
それはクリスチャンだったら皆知っています。
しかし、それを本気で受け取めているかどうかというのは、行動に現れると思います。
そして、それは各自に任されていることです。
天国に行った時、「でも、私はそれは本当だとは思わなかったよ。
聖書には書いてあるし、皆もそう言っていたけど、まさか本当だったなんて・・・」って、
そういう感じでイエス様に会いますか?、
また、救いに与からなかった人たちにこう言われたらどうですか?
「えっー!?あなたの言ってたこと本当のことだったの?
でも、あなたの生き方を見ていたけど、それが本当だとは感じなかったよ。
だって普通の人と同じだったじゃない?」
そんなふうに言われたら責任を感じますよね。
私たちはイエス様の前で、自分が納得できる生き方をしているほうがいいと思います。
イエス様は私たちを確かに愛してくださっているのだけれど、
主の御言葉を恥じる者に対しては恥じるとあります
(マルコ8:38,ルカ9:26参照)。
主の御言葉を恥じるとは、私はイエス様を知りません、と言うようなものだと思います。
それを口では言わないかもしれませんが、生き方がそれを物語っている時もあります。
光を枡の下に隠しているような生き方は、
「私はイエス様を知らない」と言っているも同然で、
神を信じていない人と変わらないのではないかと思うのです。
言葉にも行動にもイエス様の愛や教えが一つもあらわれない。
確かに救いは行いではありませんが、行いの伴わない信仰は死んでいる(ヤコブ2章26節参照)
と聖書に書かれています(ローマ12:1,2参照)。
もしかしたら時はまだ当分の間続くと思っていて、いつかそのうち悔い改めよう、
と思う誘惑に駆られます。
しかし、私たちが思っているほど、あるいは願っているほど、残されている時は長くないかもしれません。
厳しいように聞こえるかも知れませんが、
イエス様の光を掲げる者として、イエス様に従う者として、
私たちはイエス様の前でどんな生き方をするのか、真剣に考えるべきです。
主の時は確実に刻一刻と迫っているのですから。
クリスチャンだから被災しないというわけではないです。
クリスチャンだから、地震に遭っても被害を受けないということはないです。
クリスチャンだから主の保護があると、
安心して生き延びることが私たちの人生の目的ではないと思います。
私たちは、主の光として、地の塩として召されています。
自分を見たら、そんな大それたことは、できないと私は結論してしまいます。
しかし、その役を命じておられるのは、主で、主が私に力を与え、主が助けて下さる、
と約束されているのですから、ただそれを信じ、一歩従っていくだけであると思います。
最近、福島県の郡山の被災地にボランティアに行きましたが、
主が、そうするように導いてくださったにすぎません。
大勢の人が大変な作業を長い間して下さっています。
そうした人たちに、感謝です。
私はと言えば、頭の片隅で、何かできればと思っていましたが、
どんな形で行うかというのは、見えていませんでした。
何しろ、目の前にある終えなければならないことを手掛けていたので、
そこまで考えがまとまらなかったのです。
そこに行くようになったのには、実はこんな経緯がありました。
秋田に訪ねて来て友人になった人がいます。
彼は私たちの村に移住することも考えている人なのですが、
台風19号で多くの場所が被災した中で、彼が私たちにこう言ったのです。
「ボランティアに行きたいんだけれど、誰か一緒に行ってくれる人がいたらいいんだけど・・・」
と。
私は、旅を控えていて、クラスの準備や、出かけるにあたっての他の準備もたくさんあるし、
その話を聞き流すこともできたのですが、彼がクリスチャンを前にして、
被災した人たちの少しでも助けになりたい、でも一緒に行ってくれる人がいない、
と言っている時に、それに応えないなら、彼が、それはおかしいと思うのではないかと思いました。
クリスチャンなら、ボランティアを一緒にしてくれるはずと思っていたなら、
私は、そうした心を失望させることはできないと思ったのです。
行動に出ないクリスチャンを見て、疑問に思って、結局口だけの人たちなんだ、
とつまずきを与えるかもしれません。
そして私は、スケジュールも、体力的にもどうなるかわかりませんでしたが、
「行くなら僕がパートナーになります」と言いました。
旅の行程を調整すれば、被災地を彼と回れると思ったのです。
でも、果たして僕に何ができるだろう?と思ったのですが、
ただ主に従えばいいと思ったのです。
そうしたら主が場所を用意してくださるし、力を与えてくださるし、
こういう私でも使っていただける場を設定してくださったわけです。
そして、その時のことは、皆さんにも分け合うこともできました。
歳も体力も、賜物も、皆それぞれで独特です。
その独特な一人ひとりを主は知り尽くされています。
そして、その人でなければいけないという状況の鍵があり、それを主がうまく使ってくださるのです。
神様は私たちが自分を差し出す時、本当にうまく使ってくださいます。
神は働き人を招集しています。条件などありません。
ただ、「従います。私を使ってください」と言う人なら誰でも使ってくださるのです。
神は熟練した設計者であり技術者です。
どんなにおんぼろな道具でも、欠陥のある道具でも、実にうまく使いこなすのです。
プロのバイオリニストは、ボロボロのバイオリンでも、弦が一本しかなくても、
素晴らしく弾きこなしますよね。
まして相手は神様なのです。
こんな私、無理無理、と自分で制限したりせず、こんな私でも使ってください、
と自分を差し出すなら、神様は素晴らしく使ってくださいます。
これは、被災地を訪れることだけを言っているわけではなく、
各人に、聖霊が日々日常の生活の中で、ささやき、呼びかけている小さな導きに、
信頼して従うということにすべて通じることであると思います。
たった一人でも、神が共にいます。
一人でも世の光です。
神に従うなら、召されたそこの場の空気が変わって行きます。
わずかなパン種が全体を膨らませるように、全体が影響を受けて行きます(マタイ13:33参照)。
闇は光に勝つことはありません。必ず勝利があります。
そして、従う前の心の状態と、従うと決めて一歩踏み出す時の心の状態は全く違います。
肉で計算しているなら採算は合わないです。
神は、従おうとする心、その決意を見ておられます。
その祈りを聞いておられます。
主よあなたに従います、従いたいです、という叫びを軽しめられません。
そして、信仰によって主に一歩従い始めるなら、神には不可能はない、何でもしてくださる!と、
さらに信仰が増し加わり、実際その通りになります。
その信仰に応じて、神は道を開かれるのです(ピリピ4:13参照)。
そして、一歩踏み出す時、主がいればそれで十分だと、わかるのです。
それは、以前松葉づえをもって歩いていたのに、もうどんなつっかえ棒もいらなくなったようなもので、
ただ主と主の御言葉を頼りに、進んでいけるとわかるのです。
(付け足し:
聖霊の導きに従う時、主は愛をプロモートされ、
平和の内に御わざを成し遂げて行かれます。
分裂、分派ではなく。
御霊の目指すところは、キリストにあって一つとなること、
愛、平和、喜び…の実をもたらすことだからです)
それから、みんなの者に言われた、
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、
自分を捨て、
日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
人が全世界をもうけても、
自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、
人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、
その者を恥じるであろう。
(ルカ9章23~26節)
―以上 「主は道を開かれる」東京でのクラスより
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しかし、御霊の実は、
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です
(ガラテヤ5:22、23)
御霊の実
いっぱい実りますように
感謝します
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