長きに続くブログ、読みにきて下さり本当にありがとうございます。

 

全編を通じて何が言いたいかというと、

 

お子さんをよく見る、

 

ということです。

 

私が書く例はほんの一例でしかなくて、お子さんの数だけその個性の数も等しいです。

ですから対策の一例を試みても、お子さんに合わない場合もあります。

 

だからこそ、お子さんをよく見る、ということが必要です。

 

健康であれば、個性豊かで自分がなりたいものになってほしい、

 

とよく聞かれるご意見ですが、これをお子さんが20代になってもいいと推す親御さんは

今の時代まではそうそうお目にかかりません。

 

それは、親御さんにも「こうなってほしい」と思う理想があるからです。

希望に沿っていなくても、もしかすると10年後、20年後転機によってお子さんが変わることもあります。

 

今の時点でうまく希望の通りのお子さんに程遠い、他のお子さんよりなんだか幼い、勉強ができない、そうだとしても、健全にご飯を毎日食べ、しっかり眠れるお子さんは、自分の適性の中でなんとかしてゆくものです。

 

これも1例ですが、

 

見栄っ張りの親御さんがいるとします。そうすると、そういう親御さんの目線をお子さんも学ぶわけです。

見栄っ張り、というものは、自分の許容以上のものを欲しがったりします。すると、進路などを決める場合でも、自分の能力以上の理想を求めるために到底敵わないレベルの高い学校へ行きたがる。

 

それは別に問題ではありません。しかし、そのための努力、達成に必要な能力を磨く鍛錬やそれに対する忍耐も教えなければ成功はしません。

 

努力を身に付けてこそ、高い山への挑戦をしても良い、そういう順番で成功への道筋を教えることは、大人の大きな任務ではないか、と私は思っています。

親御さんが自分たちの能力以上の成功をお子さんに望む、そういう時に塾や学校の指導が必要となるわけです。

 

お子さんを見つめる。お子さんを知りながら、親御さんも自分に欠けていることや学ばなければならないことを見つける。そういう同時進行で繋がる親子関係のご家庭のお子さんは、自然と大人というものになることを知るのだと思います。

 

最近思うのは、大人が「大人しかできない快楽」しか子供に見せていないのではないか、と思います。SNSなどをみても、楽しい幸せな部分、キラキラな生活を見せることに集中しているため、その陰に必要な努力や工夫を知らずにいるのではないかな、と思うのです。

 

私は子供の頃、父の職場が近いためよく父が働く会社へ父をチラリと見に行きました。小さい事務所の中で窓際に背を向けて仕事をしている父の頭しか見えませんでしたが、それに安心感を覚えたものです。見つかると、職員の方々が気を遣ってしまうので来ないようにね、と言われていましたが、5時きっかりに仕事が捌ける父を門の前で待っていたこともあります。だめよと言いながら見かけると笑顔で帰ろう、という父と帰るのが好きでした。

 

母は、洋裁を生業にしていて自宅で仕事をしていました。依頼が混むと、朝から夕方まで自分はお昼も摂らずに仕上げていた背中を見て育ちました。地道な仕事を時々ひっそり歌を歌いながら黙々とする母。それぐらい仕事に生き甲斐を感じていた母でしたが、老眼が進み、細かいところに気が向かなくなった、と言って60歳前にすっぱり辞めてしまいました。

 

お客さんに迷惑な洋服を作るのはプロじゃないからね。

 

私も、若い時のようにコンサートに集中したり、何時間もの練習に精神がついていけなくなった時、

やめようと決意したのは、母のこの時のセリフが心に残っていたからでした。

 

お客さんや現場に迷惑をかける演奏家はプロじゃない

 

両親が地味でも、努力や自分の能力を見極めて生きることの意義を教えてくれたことが、私の現在の辞書となっています。

 

教師が一番苦手な生徒というのは、面談をしても噛み合わない親御さんを持つ生徒たちじゃないか、と思います。

 

学校の教育方針や、担任へクレームをつける親御さんの意図が掴めない場合があります。

それは単にソリが合わない、ということではなく、明らかに生徒の悪い行動は学校のせいだと言ったり、

たくさんの生徒の中で自分の子供しか見ていない親御さんは本当に対応に困るのです。

 

高校非常勤講師をしていた頃、教員室ではよく生徒から聞く家庭の様子を話し合うことがあり、信じがたい言動や行動を起こすお母さんやお父さんを持ちそれにストレスを持つ生徒もいました。そして必ず、そういう子はのちに何かしらトラブルの渦中に巻き込まれるのです。

 

これが度重なり、誹謗中傷が発生したり、周囲に影響を及ぼし、教師個人のストレスがマックスに登った時、

向けられる攻撃や不安定な精神の中で生徒たちに攻撃が向く、ということもあり得なくないです。

 

校内虐待の裏には、その生徒への怒りと共に、家庭での教育や躾、指導の不備についての怒りも含まれている気がします。

 

一絡げに学校が悪い、今年の先生はハズレだった、と思う前に、

 

なんで私たちは学校に不満があるのだろう、なぜうちの子供は学校に馴染んでいないのだろう

 

とひとまず考えるべきじゃないか、と思います。

 

そして、なんとか時間を設けて時には学校側と熱心に意見交換をする、関心を向けることで、連絡帳よりもよりよくお子さんが集団生活をどう過ごしているかがわかるというものだ、と私は強く確信しています。