インスタグラムに365.notas, と言う格言みたいな、詩のようなスペイン語のフレーズ集を載せたアカウントがあって、

読解の一つとして毎朝、毎晩1フレーズを読むようにしています。

 

最初は、文法があやしい時期は珍紛漢紛でしたが、最近徐々に辞書なしで読めるようになってきました。

 

今日はへえ、と言うフレーズが乗ってました。

 

Amar no es subir una foto con ella a tu redas y poner una frase romántica, 

es un bien detalle y necesario pero amar es que cuando ella no te ve,

la respetos, seas íntegro, fiel y le des su lugar. 

 

愛することとは、彼女との写真やロマンティックな言葉をSNSに載せることではない、

それは良いでティールで必要なことだけれど、愛することは、彼女が観ていない時に、

彼女を尊敬し、誠実で、忠実でありそして、彼女の居場所を与えることなのです。

 

(↑セルフ翻訳なので、間違えていたら教えてくださいませ。)

 

接続法の教材のようなフレーズですがw、内容にふふーん、と思いました。

 

私の元彼の一人に、少し博愛主義を勘違いしていた男で、facebookで

海外からの女の子からのアクセスが来たことに「勘違い」をしてしまい、

妙に甘いフレーズとセルフフォトを載せて、複数の女の子に愛してるよ、と宣う奴がいました。

 

勘違いは勘違いを生むわけで、甘い言葉や詩を個人メッセで送る彼に、愛されている、と思う女の子は相当数発生し、

その子達が夏のバケーションに彼の地元に行きたいと殺到してしまって私に泣きついてきたことがありました。

 

公の場で、誰かが自分を愛し、君は美しい、と言われれば、

普段鼻ぺちゃだのチビだのと家族に笑われている日常に花が咲くわけで、

それが一度も会ったことのない男性であっても、実物よりもハンサムな写真をアップしている男性だとしても、

彼の自分を愛でる意識を「正真正銘本物」と信じてしまうことはよくあると思います。

 

さてまた、自分の年取った妻を連れて行くより華があって良いと言うだけの理由で

知人の出席が薄いパーティーに連れて行かれる2号さんのように、

公の場に寄せてもらうことで「公認(仮)」の称号をもらって有頂天になるのと差して変わらない。

 

こんなものを実生活でいくつか観ていると、

彼女にもわかるような優越感だけを与え注ぐ行為は、将来的には不幸を招くのでは、

と当時から感じていました。

 

また、「人に見られる証」が真の愛情だと信じてしまうと、それはまるでショーケースのマネキンと同じ。

 

その場で素敵ね、とは思われても、それに魅せられてどれだけの人がそのマネキンを真似ようと思うか、

という理論と同じだと思う。

 

実際は、自分に似合う服やスタイルしか女性は認めないもの。

だから、ショーケースの服に似合う少数が購入し、外を闊歩する。

 

それはまさに似合う女性には誠実で嘘を言わない、環境を与える愛と同じだが、

似合わない、もしくはマネキンの黄金値を持たない女性には何の価値も持たない。

 

人の前で彼は自分を愛してる、と言ってくれる、欲しいものを買ってもくれ、旅行にも行く。

しかし、実は「本命」がうちで飯を、寝心地の良いベッドを作って待っている。

そして、彼は使命感だと言いつつもいそいそと帰ってしまう。

 

人が負の心理、ナイーブになる夜までに本宅に帰理自分のベッドで寝る男性にとっては、

愛人が何人いようとも、自分が建てた家と妻が一番なんである。

 

それは、その男が二人の女性を線引きして与えるものを分けている、

と言う証明の可視化じゃないかな、と。

 

上記のフレーズでは、一人の男性に対して一人の女性の愛し方を説いているのだけれど、

 

ふーん、とこんなことを思った私の恋愛遍歴と周囲の恋愛環境は

今に比べると相当ひん曲がってたなぁ、と思ったわけであります。

 

抜け出せてよかったなあw。

 

昔の音楽業界は本当に恋愛事情は屈折しておりました。

バブル時代、男性がお金を持っていた時代なんかほんと派手にやりたい放題だったなぁ。。

 

 

さてまた、そんな我が家。相棒には他の女性に愛していると言う愛情や

時間、経済の余裕はなく、5日の連休明けで仕事に行きたくないと駄々をこねるのを、

 

今日の昼はビーフカレーよ、

 

というと尻尾をブンブン振って出勤して行きました。

 

実にちょろいw、でも彼の忠実さには感謝もしています。