~2018年度 MFUマイスター≪技術遺産≫認証 受賞者~

私たち日本人が、後世に伝え遺していかなければならない「メイド・イン・ジャパン」の技術力。

歴史と伝統からくるノウハウに裏打ちされた“ 技”“ 美”“ 心” を持つ受賞者を紹介します。

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誰も知らないものを探しに行く。

 

株式会社 生活の木

カルチャー事業本部ゼネラルマネージャー

 

アロマテラピーの第一人者

 

佐々木 薫

 

まだ知らない植物があれば、それが地球の奥地であれ、ためらわずに足を運ぶ。そうして、いくつもの原産地を訪ね歩いてきた。遥か遠い昔から、人間は植物からたくさんの恩恵を受けてきている。だから、一つ一つ、それを確かめに行く。

とはいえ、さまざまな旅を経て造詣を深めてきた佐々木さんも、最初からそれを専門としていたわけではない。むしろ逆で、この国そのものがまだハーブやアロマの存在すら知らなかった。会社もそうだった。

佐々木さんが新卒で入社されたころ「生活の木」は東京・原宿の一角で、「陶光」の名でオリジナルの陶器を販売していた。その陶器からハーブの世界へと移行する、まさしく会社の転換期にあった。     

佐々木さんはまもなく営業事務の仕事から、企画部へと移る。

「ほかに人がいなかったから」

佐々木さんは、そう謙遜する。しかし、その人にできないと思ったら、会社はすぐに別の手を打つものだ。静かな佇まいのなかにひそむ彼女の強さと探求心を、そのときすでに周囲は見抜いていたのではないか。

生活の木は、終戦から10年を経た1955年に、当時大学生だった重永進氏が個人創業したのが始まりである。氏は76年に2度目の渡米をし、このとき訪れたホビーショーで一つのブースに釘付けになった。それがポプリで、ハーブとの最初の出会いとなった。

ところが、入社したての佐々木さんは当初、さほどポプリに興味が湧かなかった。ただ草木染めなどは好きだったし、自然のものに興味があった。仕事が魅力的だと思えるようになったのは、製品にはできるだけ手を加えない、自然のままを基本としていることだった。やがて、私の生きる道はここにある!とまで思えるようになった。

生活の木は、すべてが自前主義である。誰かが用意してくれるわけもない。だから、ここまで、専門的な指導を受けたことがない。

知り合いが海外に行くとなれば、現地の図書館に行って関連書物を調べてくれるように頼んだ。入荷したカートンがあれば、紙をはがして、原産地を探ったりもした。

自前主義には途方もなく苦労と困難がつきまとう。その代わり、そこで身に着けたものは本物だ。

これまでアフリカやブラジル、イランやイスラエルなど、日本人があまり行かない国々の奥深くまで足を運んできた。かれこれ30か国近い。  

すべてはビジネスをやりながら、見も知らぬ土地を訪ね、人と会い、聴き、教わり、試し、眼に焼き付けて修得してきたものだ。

広大な畑を耕すように、地に足をつけ,一歩一歩踏みしめていく。人がよりよく生きられる、本物の、生活の木を探して。

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「日の丸タオル」で、

スタンドが一つになる日。

 

株式会社 京都工芸

代表取締役

 

タオルソムリエ

寺田 元

 

父からもらったものがある。

一つは、京都で発祥し、やがて滋賀に移転したギフトの会社、京都工芸である。全国2万4540局の郵便局を顧客に、さまざまなノベルティ用品を納入していた。仕事の95%が郵便局に向けたものだった。

もう一つが、野球に熱中していたころ、父がくれた赤いタオルだ。鮮やかだった赤は夥しい汗と涙を吸ってすっかり変色してしまった。が、いまも捨てられないでいる。

寺田さんは大学を出て一旦は就職したものの、はからずも父の下で働くことになった。が、あるとき父は、何も伝えず息子に代を譲り、それきり来なくなった。ところが2年後、事態はあっけなく急変した。

 2003年4月、郵政民営化とともに国からの予算はぴたりと止まった。売り上げは3分の1にまで激減し、生活もままならなくなった。

 折りから時代は、ネット通販の黎明期に差しかかっていた。何とかしなければとの想いから、滋賀県のセミナーに参加したら、そこではある領域に特化してテーマを選択することを求められた。そして寺田さんは、ほとんどの人が振り向かないタオルにその回答を見出したのである。

 自分なりに理由はあったのだが、周囲はことごとく反対した。どこにでも売っているものを、何でわざわざネットで売る必要がある。そもそもタオルはもらうものだろう、いったい誰が買ってくれるんだ。

葛藤と闘いがあった。それでも寺田さんには、人がやろうとしない領域にこそ、可能性があると思えた。   

ともかくもかすかな伝手を頼って、生産地をめざした。ところが生産者はどこも、海外からの安い輸入品に押されて、息も絶え絶えだった。自分も含め、日本製の価値があまりにも知られていなかった。いいものをつくろうと、必死にやっているのに。

だったら自分は、この人たちの生活を守るお手伝いをしよう、そう心に誓った。そこからサイトの編集方針を大転換し、ずんずんとタオルの新しい領域に分け入っていった。

タオルは拭くだけのものではない。父がくれた赤いタオルではないが、人と人をつなぐこともある。寺田さんはそう確信し、生産者のためにあたらしい需要をつくってきた。

そのなかの一つ、「日の丸タオル」をご紹介しておこう。

タオルは製法上、両面の同じ位置にぴたりと日の丸をプリントすることが困難とされてきたものだった。すでに京都工芸の玄関には、誰もが知っている著名なアスリートたち直筆の感謝が掲げられている。

 やがて東京オリンピックがやってくる。その日、スタンドのあちこちで、多くの日本人がまっ赤なタオルを掲げていることだろう。あるときは高らかに、あるときはやさしく、きっと選手と観客を大きな心でつつんでいることだろう。

 

*「日の丸タオル」は株式会社京都工芸の登録商標です。

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最高の着用感を、工場でつくりあげる。

 

株式会社 東和プラム

取締役製造部長 兼 工場長

 

スーツづくりのスペシャリスト

土方 直樹

 

デザイナーになりたい、という想いがあった。だから、生まれ育った岐阜の県立高校を出て、東京の文化服装学院に進んだ。

服装科で2年間基礎をやり、さらにデザイン専攻科で1年間学んだ。一貫していたのは、紳士服にたずさわりたいとの想いだった。結局、デザイナーにはなれなかったが、人生を紳士服に捧げて、いまでは天職とも呼べる仕事につながっている。

人混みが苦手だった。卒業してすぐに岐阜にもどり、当時、紳士服で高い評価を得ていた株式会社天神山に入社した。配属されたのは技術部で、パタンナーのアシスタントだった。仕事の全容を知らなければパターンも引けない。そのため会社は、業容の一切を覚えるために、系列の縫製工場に出向させる内規を設けていた。今後はマシンメイドの工場が伸びるとの読みもあって、岩手県の紫波プラムに出向することになった。

思えばそれが、激しく旋回するその後の人生の始まりだった。

結婚してすぐ、中国の青島につくった3社合弁工場に単身で技術指導に向かう。そこで1年半を過ごして帰国すると、まもなく紫波プラムが売却されてしまい、もう一つのグループ会社のプラムイワテで、技師長の後継者としてその技術を学ぶことになった。が、やがて屋台骨だった天神山までが倒産の憂き目に会う。

 ここで土方さんの服飾のキャリアが終わってもおかしくなかった。ところが、天神山の高度な技術を惜しんだ商社の仲介もあり、服飾資材の総合商社である島田商事が救いの手を差し伸べた。以降は同社の一翼として再起を図ることになった。現在の東和プラムがそれである。

それでもまだ試練は続く。発足わずか2カ月で米国発のリーマンショックが起こり、受注が激減したのである。生き残るには何を捨て、何を残し、何を組み立てるか。市場が求めるものへの必死の挑戦がここから始まる。

まずは新たな指導者を招き、新たな服づくりに取り組んだ。仕上がりのきれいさを重んじた服づくりと決別し、なにより着用感を重視する方向へと舵を切った。そうして鎌襟に代表される独自の技術で新しい顧客を獲得し、一方でジャケットやタキシード、ウールコートへと業容を広げ、パターンオーダーも開始した。

多くの苦難を乗り越えて、新会社はようやく黒字軌道に乗った。

 土方さんが紳士服を手がけて、30年になる。その間、周囲は激しすぎるほどに揺れ動いてきた。不思議なのは、そんなめまぐるしい動きのなかでも、なぜか土方さんだけは一つの一貫した流れのなかで、ひたすらマシンメイドの服づくりを磨き上げてきたのである。

「昔からのものをしっかり持っている。当社は人数のわりに高度な技術者が揃っている。若いが、彼はその人たちをしっかり引っ張っていっている」。現社長の評価である。

 

 

文=瀧 春樹