忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -224ページ目

映画『樺太1945年夏 氷雪の門』

これは是非に見にいきたい。


朝日歌壇鑑賞会【今週の作品】 てブログで紹介されてました。


遊就館 の『私たちは忘れない!』も今度観に行こう。



全然関係ないけど、坂東眞砂子氏「子猫殺し」告白について、素晴らしい回答をしているおっちゃんが。


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2006年08月27日


坂東眞砂子さんについて


質問:
直木賞作家の坂東眞砂子さんは、
子猫が生まれると崖に投げ捨てて殺しているらしいです。
坂東さんは「避妊手術も、生まれた子猫を殺すことも同じこと」と
言っていますが、私からすれば残虐行為としか思えません。
学校の授業でも「飼い猫も人間も幸せに暮らすには?」
という題材で話題になりました。
猫の意思を無視して避妊手術をするのはひどい。
子猫を殺したり捨てたりするのはもってのほか。
子猫がたくさん生まれても家では飼えない。
結局は解決策が見つかりませんでした。
避妊手術もしないで、子猫を殺すことも捨てることもない方法は
何かないでしょうか?
(東京都 新田美紀子 中学生)

回答:
オス飼えば?
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すごいすっきりした。

ニュルンベルク裁判、東京裁判

引用ーー
西部 これはマイナーポイントかもしれませんけど、戦後処理としては、ドイツに対して行われたニュルンベルク裁判と、極東国際軍事裁判がありますが、この二つには決定的な違いがあります。
というのも、事後立法で平和に対する罪とか、人道に対する罪とか言われていますが、戦争当時、そんな法律はなかった。それを事後的に作って縛り首にした。こんなものはもう法規的裁判じゃない、となっている。でも、ぼくはそれ、許される場合もあると思うんです。法律にも法律の大前提がある。国際社会で暗黙の大前提として、こういうことはやらない、やってはならない、という了解があるはずです。それを破ってしまったら国際社会そのものが成り立たない、という大前提はありうるわけです。
ドイツはそれを侵犯した可能性があるんです。つまり、ホロコーストとかジェノサイド、つまり民族皆殺しをやっていいなんて国際社会に向かっていったら、国際社会が成り立たないでしょう。したがって、ニュルンベルク裁判の「人類に対する罪」という意味を考えて見ますと、国際法の大前提という暗黙の大前提をドイツは侵犯したんだと思うんです。それで暗黙の大前提を事後的に明文化してみたら、人類に対する罪、ということになる。それでもって、ナチスがやったことは……と裁くことは許されると思う。
だとしたら問題は、果たして日本はあの戦争で、国際社会で暗黙の大前提を大きく侵犯するようなことをやったかどうか、ということになる。僕の結論では、そんなことはまったくやっていない。少なくともアメリカの原爆に比べたら、本当に無視していいくらいのことしかやっていない。それなのに、今の人たちは、ニュルンベルク裁判と東京裁判の区別すらついていないし、法律家たちもそういうことについて、何も議論していない。挙句の果て、国会で靖国参拝とヒトラーの墓参りを同列に話すような公明党の議員まで出てくる。

小林 日本とドイツは違うというこんな基本的なことまで、いまさらながら言わなければならないなんて、ため息が出るよ。

西部 本当ですね。しかも、六〇年たっているんですよ。戦争が終わって。

小林 唖然とするよ。もう、どうしようもないね。
そういえば、田原総一郎がいまさらながら、靖国神社そのものを肯定するようなものいいをするようになったんだけど、それが「赤紙を出したほうと受けたほう」という言い方なの。「赤紙組(赤紙で召集され戦死したもの)からみれば、加害者という言葉は慎むが、(赤紙を出したほうのA級戦犯たちは)甚だありがたくない人間たちなのである」だって。赤紙を出したほうが加害者、受け取ったほうが犠牲者であり、それが同時に祭られているという言い方をしている。これはへんないい方だよね。

西部 それは、中国的な、というより階級闘争史観の言い方ですね。

小林 A級戦犯を祀ってはいけないということを表立っていえないからって、今度は、「赤紙を出したほう」という言い方にしたわけよ。それが、いかにも説得力がある言葉だと、彼は思い込んでいる。だから、わしが「朝ナマ」に出た時、田原が「赤紙を出した人間と受けた人間が一緒に祀られているのはおかしい」って言ったから、わしは「何でおかしいんだよ」って言ったの。基本的に近代国家は徴兵制をやることによって生まれたわけだから、そうしたら韓国だってどこだって、いざ戦争をするときには、赤紙を出さざるを得ない。指導者側は召集令状を出さざるを得ない。それじゃ、指導者側は常に加害者で、赤紙を受けた兵士たちの側は全部犠牲者となってしまうから、近代国家の基盤が成り立たないんじゃないか、ということを言ったのよ。そうしたら、「空理空論はやめろ!」って言って、話を打ち切られちゃった(笑)
そういうことに対して、周りの人間も、全然おかしいと思っていないの。その言葉に、スーッと説得されてさ。

西部 大日本帝国憲法の大二〇条には、「兵役ノ義務ヲ有ス」という条項があったでしょう。そんな国家だったわけです。今だって世界中に、兵役の義務がある国家はたくさんありますよ。最近は、イスラエルのように、成年女子にも兵役の義務がある国もある。そういう国家をみんな認めていたわけでしょう。だったら、令状を出すほうの気持ちにもなれといいたい。何も、好きで赤紙を出していたんじゃない。戦争が起これば赤紙を出す義務のある役人が出さなければならない。それを、出した人間が悪くて、出されたほうが哀れな犠牲者というのは、憲法をなんと心得て議論しているのか! 僕にはまったくわからない。そこまで人間、愚かしくなれるものなんですかね。田原さんの頭の中では、憲法も何も、みんな空理空論なんでしょう。

小林 そういうわけがわからないことを言い始めるからさ。それなら、日本が徴兵制をしいて近代国家に生まれ変わり、それによって四民平等を達成したということ自体を否定すればいいじゃない。もういっぺん、幕藩体制に戻れ、差別のあった世界にもどれと言えばいい。それなのにそうも言わない。

ーー(本日の雑談7 小林よしのり、西部邁)

水屋神社、フランスに分社建立

これはちょっと面白いですよ。三重県に水屋神社という神社があるそうです。そこにフランスから来た真言密教のお坊さん夫妻(ここも面白い)が、水屋神社を気に入ったとかで、宮司に「分祀できないものでしょうか」と相談したら「やろうやろう」みたいな。宮司すごい。


水屋神社ホームページ  



久保憲一氏(三重県水屋神社宮司)
フランスに分社を開く
 



フランスに水屋神社旋風巻き起こる  



ブルゴーニュ分社建立地鎮祭における宮司挨拶

 そもそも日本は往古(おうこ)より「豊(とよ)葦原(あしはら)瑞穂(みずほ)の国(くに)」と言われてきました。気候が穏やかで、四季の変化に富み、豊かな自然の中に生活した我々の祖先は、やさしい恵みと、時には厳しい試練を与える大自然に、人間を越えた霊力を感じとりました。そして我々の祖先たちは森羅万象(しんらばんしょう)を司(つかさど)って、国土を創り、国や人を護る神の存在を知り、これらの神々に「感謝と畏敬」の念を捧げてきました。これが日本の「神道」と呼ばれるものです。
 神道には、教祖、教典はありません。したがっていわゆる一般的な宗教の範疇(はんちゅう)には入りません。事実、神社には仏教徒はもとよりキリスト教、イスラム教、その他さまざまな宗教の信者が多く参拝されます。要するに神道の根本精神は「敬神崇祖」であり、この精神は人種・民族・宗門宗派を越えて世界共通・人類普遍の「平和原則」であると思われるからです。
 ところで水屋神社は昔からとくに「縁結び、子授け、安産、水に関わる商売」に霊験(れいげん)あらたかで、近頃では「地球平和」と「水への感謝」の祈願者が大変多くなっています。そしてご縁あってフランス真言密教寺院・光明院境内においてフランス分社建立地鎮祭を行なわせていただく理由は、この地に、ブルゴーニュ地方はもとより、フランス国、ヨーロッパ大陸、ひいては地球の平和を願って「鎮守の杜」をつくり、日本人の文化と心の底流にあるもの皆様に感じ取っていただきたいと思うからです。 日仏両国民の協力の下に「地球平和」と「水への感謝」を祈る神社とその鎮守の森が建立されることに我々は歴史的な意義を感じる次第です。
 本日、多くの皆様のご参列のもと、フランス真言密教寺院・光明院境内において滞りなく「地鎮祭」が執り行われましたことを心より御礼・感謝申しあげます
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ヨンヌ、レピュブリキャン紙記事の邦訳  フランス光明院住職 融仙訳

 ヴィルノウブレ、ジュネの日本佛教寺院で非常にまれな神道儀式 土曜日の朝、融快という僧名を持つ、ダニエル、ビヨーとその妻融仙は大神職久保氏とまみ氏を迎えた。光明院にて土地を清め鎮めるための神道儀式を行うためである。
 この地でこの種の儀式が公に行われることはまったく例外的な出来事である。喜びと感動をかくしきれない融快氏は、始めてフランスで行われた神道儀式であるとは一〇〇パーセント言い切れないが、初めての地鎮祭であることは確か。と言う。
 真言宗の寺になぜ神道の大宮司が訪れたのか多くの人々にとって信じられないことかもしれないが、昔から神道と佛教は平和に共存してきた。例えば、寺院の隣に神社があったり、その逆の場合もある、とも言う。
 調べたところによると、神道は日本の宗教のひとつである、あるいは日本宗教と言ったほうが良いのかもしれない。 紀元前、三、四世紀または七世紀にさかのぼる、一一〇〇〇年前の古い伝統から生まれたものであるとも言う。確かな事は、一億の日本人が神道の信者であり、八万以上の神社があると言われている。五九三年から一九四六年までは、神道は日の出の国の国教であった。神道は汎神教、神とこの世とが一体化し、自然が神とみなされる。その上、神々、女神たち、先祖の霊や自然の中に生きずく生命を含む多神教でもある。
 ラ、モンターニュの土地が清められたので、まもなく、小さな社殿が祭られることであろう。日本を除いて、アメリカに一つ神社があるだけであるから、たとえ小さな祠でも希少価値はあるといえよう。


あらためて神道とはいいものだと感じました。アメリカにもあったんですな。