書評「私のことならほっといて」田中兆子 | メメントCの世界

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書評「私のことならほっといて」

 我が畏友の田中兆子氏の単行本。新潮社より昨年、出たのです。これが面白かった!

 「徴産制」で第18回Sense of Gender賞 大賞を受賞したり、様々なジェンダーテーマのシンポでも名を挙げた田中兆子。

緻密でえろいそのSFは私にとって「ねこのゆりかご」なみのびっくり箱でした。えろいというのは、女性を男性が観た感覚から生まれることが大多数だが、兆子氏は男性を被写体にしてレントゲンの様に非破壊高感度センサーを当てていく名手なのだ。それでいてある抑制のきいた文体は、読者を煽る。この場合、煽られるのはどこかの神経で、そういった事を知らない人はポカンと置き去りにされるかもしれない。

それが彼女の小説の手触りだ。

 

例えば、ディケンズを読んでいると、ピーナッツがいっぱい入りすぎてる柿の種を食べてる感覚になる。歯にものが挟まったり消化に悪かったりするし、食べ過ぎると胃が荒れる。ピーナッツはローストしてあるのでコリコリする。ところがこのピーナッツが生で茹で落花生として登場したとたん、フランスのデュマの大時代小説のような歯ざわりになるのだ。更に、それがバニラシェイクに入ってピーナッツ・シェイクになると、爽やかな中にエネルギーと豆の風味を閉じ込めた「風立ちぬ」になっていくのだ。

村上春樹を読みながら「またまた、ページを無駄にしているように見せかけて、核心の淵へ落っことそうという気だな」と思うこともあれば、「もういいよ、さよなら」と本を閉じることもある。

瀬戸内寂聴を読みながら、「流石に読ませるし面白いが、あんたは結論ありきだよね」「そうか、60代でこの滾り感なのか!!」とやばいもつ鍋を食べているような気分にもなる。

もういいか、この辺で私個人のつぶやきは。

 

『私のことはほっといて』は、7編の短編で構成されていて、ここからはネタバレもあると言っておくのが最近の流儀なのかいね。

突然、方言になるのはこの中の幾つかが、中上健次とは全く異なるエロスでありながら、どこかの土着的な北国の空気をまとっているからだ。一瞬、北アイルランド辺りに居るような気分にもなるのだが、時折にセリフとして混ぜられる言葉は富山の言葉だ。

そしてそれをしゃべるのは主人公ではなく、主人公のいる世界の何でもない人だ。

幾つかの短編に描かれたプロットは、女性なら身に覚えがあるだろう。「そうそう、そうだよね」と思いつつも、そのヒロインは自問自答をしながら、考えを成長させていく。他人に拠らない思考の中で判断してその先に行くべき道を決めるのだ。そういう精神性が、どんなエロ笑える話でも、とても潔いので感心する。

 

死んだ夫の脚を捨てようとして捨てられない話も何かの大きな譬喩だ。

宇宙人に拉致されて子孫を残すことになった埼玉の若い女性は、ある動物の繁殖を立場を変えて描いたものだという。

不幸な子供の話にも、自分自身の子供時代に起きたコミュニティの差別性やら、人間社会の弱者への攻撃性を想い返すことになった。

気軽に読んで、と言われたけれども、神経のどこかが感応し続ける余韻に浸った。

官能小説というのは、脳髄に痺れを起こさせるもので、決してオジサンの週刊誌の小説ではないと思う。

美味しいものを食べた時にごくりと飲みこむまでに満たされる前頭葉の喜び、そういう感応は何度でも欲しくなる。

きっと男性には向かないだろうな、きっと田中兆子の描く性の反応とは、女性の自己表現としての性だから。