ダムの底で | メメントCの世界

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ダムの底で


8年前に書いた戯曲をなぜ、上演するのか?
昨日、取材していただいた記者さんが私に聞く。確かにそう思うのだろう。他人にとっては、書いて受賞したものが上演されないという仕組みは理解しがたい。しかし、簡単には上演はできないものだったことは確かだ。新劇の劇団の企画に上っては消え、上っては消え。しかし、忘れないでいてくれる人が居て、リーディングを聞いて背中を押してくれる人もいた。
 こないだから稽古場で立ち上がっていく芝居を見ていて、本当に不思議な感覚になる。なぜなら、私はこの物語を書く時に、最初のシーンから書いたわけではない。全く後半の重要なセリフが、九州方言で頭に立ち当って来たのだ。そこから始め、最初に戻ってその地点を目指して書いた。とても短い執筆期間だった。当時、妊娠5か月だったこともあり、パソコンに向かう時間が限られていた。ダムのことも方言も調べた。けれど物語は最初からそこにあった。ダムの放水のように沸き上がった物語は結局は、幼いころに体験した地蔵盆にまつわるものだった。

曹洞宗などが多い中部地方のお盆は8月でそのあとに又、施餓鬼とか地蔵盆というものがある。子供たちがたくさん寺に集められて、説教やら地獄絵図などの話を聞き、お菓子をもらって帰るという行事である。ちょと怖い体験と子供が何十人も集まる楽しさで、夏は必ず祖母の家で暮らした私にとって、とても楽しみなものだった。従妹たちと夕暮れの中を田圃の中を進み、山の中の寺に向かう。かなりの冒険、肝試しだった。年長の従兄弟は私を置いて行こうとするし、年下の従妹はすぐに癇癪を起すしで、一人っ子の私には理不尽でもあり、血縁の近さに甘えられる楽しさもあった。兎に角、暗かった。外には街頭もない。真っ暗で田圃に落ちることもよくあったのだ。そして、まだキツネも狸も立派に出没していたし、即身仏までもその寺には存在していた。恐怖と快楽は非常に近く、この行事を逃してなるものかと、毎年私は地蔵盆の楽しみのうちに夏を終えた。

ダムは恋人たちの会話が最も多いし、劇的なシーンもたくさんある。しかし、それらは田舎ではよくある話なのだ。他人の家の事情というのは筒抜けではあるが、知らないという建前を必要とする。また、人間は都会でも田舎でも欲望があるのは変わりがない。その生活に飽き足らない、そういう理由で誘惑に負けることを身を持ち崩すというのだが、どこへ行っても他人の目がある田舎では、余計にドライブがかかるようだ。そして、肉親の情が濃いようで薄いのも田舎だ。一番のルールは義理、義理が全ての正しさを凌駕する。私も義理で断れない見合いをした事があるが、義理というのは正義よりも強固で理由づけがはっきりしているから、お見合いなんかして、断った日には親に「お前は良くても、わしらは困る。世間に笑われる」となるのだ。義理で結婚するのか?そう、一世代前はしてきたのだ。
かくして、義理婚というものが田舎にはたくさんあるのだが、旨くいく割合は恋愛結婚より多い場合がある。お互いへの期待値がそこそこなのか、それとも義理を果たし合っているのかわからないけれども、人間は恋愛感情よりも保身の能力が優れた動物なのだ。だから、義理というのはひょっとして、人間の進化の過程で折り込まれたのかもしれない。
なんて、勝手に想像しつつ、ダムのヒロイン清美を考える。こういう女は厄介だ。しかし、強さと弱さを武器にしている。西山水木演じる清美は、私の脚本の中からしっかりと立ち上がって、すっくと大地に立っている。それはとても美しい凛々しい姿だった。
ドラマを俯瞰していると、自分を俯瞰しているようで時々、酔いが訪れる。それは面白い状態で、幽体離脱したのと似ている。結局は自分の中のものをセリフとして再生しているのにすぎないのだろうな、とニヤニヤ笑いながら見ているが、正直、裸をさらしているようでもある。そう、作家は身をさらすのが商売。俳優も同じ。嘘はダメなのだ。

ダム、ついに来週本邦初公開なわけで、どんな衝撃的な作品になるのか楽しみです。
自分で自分をほめるってへんだけど、あの頃の自分をほめてあげたい!
 でも、この物語はフィクションです!
御蔭様でプレビューは売り切れました。目指せソールドアウト!