サクラ
パンジー
マリーゴールド
ホウセンカ
ペゴニア
ローズマリー
カモミール
花を好んで食べる。
舌の上で転がす。
ベラドンナさえ食べてしまいたい。
実際、食べるわけはないけれど。
美しさは毒。
毒を想像するとき。
同時に甘く痺れて痙攣するような感覚を想像してしまう。
不埒だ。
あるひとつの作品について、様々に思いを巡らせた自らの体験を綴ろう。
その作品は歴史に残るような名作でもなく、ベストセラーとして名を連ねるような流行りの小説でもない。「小説」と括ってしまってもいいのだろうかとさえ躊躇してしまうようなものであった。何故なら、『○○○(名は伏せることにする)』と銘打たれたその作品はたったの7頁で構成されており、しかも、ウェブ上でのみ公開されているものだったからだ。
しかし、たった7頁のこの作品が、これまで「読む」ということを受動行為と捉えていた私を驚嘆させ、創造するということがどれほど身近なものであったのかということに気づく切っ掛けを与えてくれた。
故に、後にある文献で「読むことは書くことである」という一文を見たときには、驚きとともに、ストンとなんの抵抗もなく言葉が頭に落ちてくるような妙な感覚を味わった。
書き手が作品を創造する時に必ず行う推敲という行為。それこそがまさに、「読む」ことと「書く」ことの相互作用を顕している。私はそのことを身をもって理解した。『○○○○(前述作品)』に出会ってからというもの、あくまでも趣味の一環ではあるが、私は拙いながらも物語を「書く」という創造行為をしているのだ。推敲は何度しても飽き足らず、納得がいくまで読んでは書き直し、自分の完成型へと近づける。その過程のことを考えると、「読む」と「書く」の相即性は一目瞭然と言っていいのだろう。
前述の文献に出会わなければ、私はその相即性についてぼんやりとした認識しか持てなかっただろう。そのことに気づけて本当によかったと思う。
話は変わるが、私は、文学というものには、正真正銘のオリジナルはないと思っていた。決して断言は出来ないが、オリジナリティー溢れる作品はあったとしても、それがオリジナル(原型)に成り得るとはあまり思えなかったのである。
例えば、ある作品(Aとする)に触れ、深い感銘や衝撃を受けることで新たな作品(Bとする)が生み出されたとする。Bは確実にAの影響を受けており、作品の中にAの片鱗を滲ませるだろう。また、感銘や衝撃を受けたものが、ある物や事柄であったとしても同様だ。そもそも創造するという行為は、ある日突然、降って湧いたように始めるものではない。必ず何かしらに影響を受けている。これは文学に限って言えることではないが、文学ではより顕著であると思う。
作品に影響を受けて生み出された作品が、また誰かに影響を与え、新たな作品が生まれる。それが繰り返されてきたということは、前述の「読む」と「書く」の連鎖が幾重にも繰り返されてきたということでもある。
オリジナルに関する疑問の答えは、自分のなかでまだはっきりと出せていないが、少し整理出来た気がする。作品を読みながら生まれた思いや考えは、読み手自身のなかで吸収され、成長・発展、或いは後退・退歩する。そうして吸収されたものが新たな形で生み出された場合、それは確実に元の形ではあり得ない。それだけは変わらず確かだ。
「読む」という行為を理解することは、作品を生み出すためにも重要である。常に作品を創造するということに関連付けることは誤りかもしれないが、私は結局のところそこに重点を置かずにはいられない。そして、その位置から疑問を持ち考えていくことが、私にとって何よりも大切でかけがえのないことなのだ。
とかなんとかいう、18歳の頃の思考の垂れ流しを見つけた。
その作品は歴史に残るような名作でもなく、ベストセラーとして名を連ねるような流行りの小説でもない。「小説」と括ってしまってもいいのだろうかとさえ躊躇してしまうようなものであった。何故なら、『○○○(名は伏せることにする)』と銘打たれたその作品はたったの7頁で構成されており、しかも、ウェブ上でのみ公開されているものだったからだ。
しかし、たった7頁のこの作品が、これまで「読む」ということを受動行為と捉えていた私を驚嘆させ、創造するということがどれほど身近なものであったのかということに気づく切っ掛けを与えてくれた。
故に、後にある文献で「読むことは書くことである」という一文を見たときには、驚きとともに、ストンとなんの抵抗もなく言葉が頭に落ちてくるような妙な感覚を味わった。
書き手が作品を創造する時に必ず行う推敲という行為。それこそがまさに、「読む」ことと「書く」ことの相互作用を顕している。私はそのことを身をもって理解した。『○○○○(前述作品)』に出会ってからというもの、あくまでも趣味の一環ではあるが、私は拙いながらも物語を「書く」という創造行為をしているのだ。推敲は何度しても飽き足らず、納得がいくまで読んでは書き直し、自分の完成型へと近づける。その過程のことを考えると、「読む」と「書く」の相即性は一目瞭然と言っていいのだろう。
前述の文献に出会わなければ、私はその相即性についてぼんやりとした認識しか持てなかっただろう。そのことに気づけて本当によかったと思う。
話は変わるが、私は、文学というものには、正真正銘のオリジナルはないと思っていた。決して断言は出来ないが、オリジナリティー溢れる作品はあったとしても、それがオリジナル(原型)に成り得るとはあまり思えなかったのである。
例えば、ある作品(Aとする)に触れ、深い感銘や衝撃を受けることで新たな作品(Bとする)が生み出されたとする。Bは確実にAの影響を受けており、作品の中にAの片鱗を滲ませるだろう。また、感銘や衝撃を受けたものが、ある物や事柄であったとしても同様だ。そもそも創造するという行為は、ある日突然、降って湧いたように始めるものではない。必ず何かしらに影響を受けている。これは文学に限って言えることではないが、文学ではより顕著であると思う。
作品に影響を受けて生み出された作品が、また誰かに影響を与え、新たな作品が生まれる。それが繰り返されてきたということは、前述の「読む」と「書く」の連鎖が幾重にも繰り返されてきたということでもある。
オリジナルに関する疑問の答えは、自分のなかでまだはっきりと出せていないが、少し整理出来た気がする。作品を読みながら生まれた思いや考えは、読み手自身のなかで吸収され、成長・発展、或いは後退・退歩する。そうして吸収されたものが新たな形で生み出された場合、それは確実に元の形ではあり得ない。それだけは変わらず確かだ。
「読む」という行為を理解することは、作品を生み出すためにも重要である。常に作品を創造するということに関連付けることは誤りかもしれないが、私は結局のところそこに重点を置かずにはいられない。そして、その位置から疑問を持ち考えていくことが、私にとって何よりも大切でかけがえのないことなのだ。
とかなんとかいう、18歳の頃の思考の垂れ流しを見つけた。






