・・・・・・・・・はなかなかに小難しいコンセプトを持ちながら活動していますが、中でも核となるのが「都市」という概念です。「・・・・・・・・・のいう「都市」ってなに?」、そんな記事を書いてみます。
 
少し前提の話から始めます。・・・・・・・・・は複数人の運営陣で運営、制作されているプロジェクトです。僕は楽曲、パフォーマンス面を主に見ていますが、その他に、コンセプト(わかりやすく「世界観」と考えてもらってもいいです)を考えそのコンセプトから珍奇なイベントを組み立てるコンセプト担当や、また・・・・・・・・・の大好きなIT系のガジェット、企画を担当するテクノロジー担当などがいます。それぞれが得意分野を育てていくような棲み分けをしつつ、互いにあれこれアイデアを出しながらウトプットへつなげていくのが・・・・・・・・・のモノ作りです。
 
コンセプトはコンセプト担当の領分ではありますが、当然ながら僕はじめほかの運営もコンセプトをそれなりに理解しています。「それなりに」というのは、このコンセプト、相当に壮大かつ難解で、隅まで十全に把握することは同じ運営であろうと難しいからです。例えば、僕は言語化はできなくても何か「確信めいたもの」を持ち楽曲をアウトプットするわけですが、この「確信めいたもの」に他運営が十全には接近できないのと同じです。それを語ろうとすると、当人とそうでない人間とは語りのレイヤーが変わる、ということです。
 
何が言いたいかというと、ここで書くのはコンセプト担当の生の言葉でもなければ、公式コンセプト見解でもなく、僕なりのコンセプト理解だということです。そもそも・・・・・・・・・のコンセプトは、「公式」といった立ち位置を拒むようなものです。そんなことがここで書く「都市」観から伝わればいいなと思います。
 
 
さて、まず・・・・・・・・・でいう「都市」は少し特殊です。抽象論から始めたほうが、実はわかりやすくなります。
 
「有象無象が入り乱れるエネルギーの塊のようなものから、なにか具体的なものがぽこっと出てくる」、こういうイメージがスタート地点です。例えば、僕(みきれちゃん)は楽曲作るわけですが、ごく普通の思考では、その楽曲はみきれちゃんから生まれたものです。しかし・・・・・・・・・のコンセプトはそう考えません。僕が曲を生み出すまでには、世界的音楽史があり、日本的地理性があり、地理性から生まれる日本的音楽史があり、また僕が生まれ育った環境、音楽的刺激を受けてきた人、見たもの聞いたものがある、あるいは嬉しい出来事があったり、悲しいニュースを目にしたり、こうしたことの総体として具体的な楽曲がぽこっとでてくる、そんなイメージです。こうした何かが生まれてくる母体となる、様々な力動がうずまくエネルギーの塊がまずあり、ある種偶然的に具体的なものがでてくる。(思想哲学をやっている方ならベルグソンやハイデガーを想像してもらうとわかりやすいかもしれません)
 
そして、実は「都市」というのはそうした「エネルギー⇒生成」という抽象イメージを具体的に象徴するものである、という感じでコンセプトにつながっていきます。
 
例えば僕は上野にそうした意味での都市性を感じます。現在の上野は様々な歴史と異文化が入り乱れながら形成されています。アメ横は戦後の闇市が発祥と言われていて当時のゴタついた雰囲気を残していますが、一方いまは観光客向けのアジアンフード街感が増し、それに引きずられるようにアメ横センター街地下にはすっぽん、ザリガニ、豚の頭といった珍食材を扱う食品店が並び、東南アジア的な異国情緒に包まれます。ガード下にはハンドメイドの良品を扱う個人商店がずらっと並び独特な空気をかもし、ガード東側に行くと大衆酒場が溢れまた雰囲気が一転します。さらに東に行くとプチコリアンタウンともいうように韓国料理屋が並び、南下して御徒町まで行くと今度は宝石商街が現れます。宝石商関係でインド人が多いことからインド料理屋が多かったりもします。上野公園は庶民の憩いの場であるとともに、博物館・美術館が立ち並び文化の発信地としても機能している。
 
つまりごった煮の、むき出しのわけのわからなさ、僕はこんな上野に何か「エネルギーの塊」そのもののようなものを感じ、またこの磁場は、極めて東京的だとも思います。そして、こうしたごった煮感に・・・・・・・・・と同じものを感じてしまいます。こんな連想で、都市≒東京≒・・・・・・・・・がつながっていきます。
 
・・・・・・・・・は「都市計画」である、という言い方をしたこともあります。「都市計画」という言葉は人為的に都市を造成するようなニュアンスを含みますが(シムシティみたいな)、・・・・・・・・・でいう「都市計画」はそうした整然としたものではありません。「よし!街を作るぞ!」みたいな人間の意思とは別の力学が働いているという感覚、複雑な要素が絡み合い偶然的に新しいものが生れ出てくるという感覚、こうした感覚をベースに、具体的なものが現出する以前のレイヤーに立ち返りその場所から何がどう現れてくるかを観測する、生成メカニズムの実証実験、といった側面が強い感じです。
 
ではそんな都市観の中で、・ちゃんはどういう存在なのか?
 
・・・・・・・・・では、「・」はどんな形態にも変化しうる、その形態変化が女の子の形をとったものが・ちゃんである、こんな言い方をよくします。例えば、空気中のチリに水分が結晶して雪ができるように、何かが結節する核のようなものが「・」であると、とイメージしてください。「・」は、先ほどの「エネルギーの塊/具体的なもの」という区分でいうとその媒介的な存在で、エネルギーの塊のプールに、「・」という核を放り込むと、そこに何かしらが結晶して、具体的なものとして我々の前に現れる。その具体的なもの、というのが例えば、五感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)だったり、当然・ちゃんたちだったりするわけです。「女の子の形をとらなくなる」というのは、具体的なものとしての・が抽象的な「核」に戻るのだといえるし、「都市へ還る」というのもまた、都市の現象(≒具体的なもの)としての・が抽象的なエネルギーの塊の元に戻るのだといえます。
 
以上が大まかな「都市」のイメージです。これを踏まえてシングル『CD』の解説文を読んでいただくと、少し腑に落ちる部分があるのではないでしょうか。
 
「72分の音の波から、ぽこっぽこっと浮かび上がってくる個々の楽曲、音の波から楽曲が生まれ、楽曲はまた音の波に還っていく…そんな体験をイメージしました・・・そこにはTokyo=都市=アイドルを感じられるはずです。」
 
 いかがでしょうか。この後に「都市の幽霊」の話題が続きますがそれはまた次の機会に。