ブログ引っ越します。
こんにちは。
いつもご覧になっている皆様いつもありがとうございます。
こちらに引っ越す事にしました。新・ピレネーを超えたらそこは
今後とも何卒よろしくお願い致します・・・。
まりまんどな
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南三陸町思い出の旅
アンヘリートさん(注・旦那)は
” 自分はスペインで一番今回津波にあった地域に詳しい人間だ。”
と断定しているのですが・・・・・・・
一番かはわかりませんが、多分5本の指には入るのではないかと、撮りためた写真を見てつくづく思います。
惜しむべきは、今年辺り気仙沼から岩手の北三陸を旅行したいと計画していたのですが、
それがかなわなかった事です・・・。
私達が故郷の海岸を旅したのはちょうどユーロ高に便乗して日本でデジタル一眼レフ(デジ一)を買った頃と
重なるので、実はかなりの勢いで写真も撮りためている時期でもあるのです(;^_^A
気仙沼、南三陸、女川、石巻、東松島・・・・・
もしかして津波被害に合うまで名前すら聞いたことのない土地かもしれませんね。
初めて知ったのが、津波被害後の風景であるのはあまりにも残念な程、美しい土地なんですよ。
で、私達が撮りためていた写真を活用して ”在りし頃の” 南三陸地方の様子を適宜ブログ記事にします。
今日は、私が大好きな 南三陸町 です。
南三陸町は、町村合併で新しくできた町名ですが 良い名前ですね。
南三陸
それだけで、おおらかでそして同時に厳しいリアス式海岸を思い浮かべます。
そして、私が観光地として周りの人に随分お薦めして来た場所でもあります。
この写真を撮った日は、両親と妹夫婦、私達夫婦で出かけたのですが、
私は母と母の親友とで、数年前に南三陸町を訪れて、とーーーーーーっても感動して帰ってきたので
是非、これは妹の旦那とアンヘリートさんに見てもらいたいと思って、
私が主張して実現した旅だったのです。
まずは名勝 神割崎
ここは、領地争いに明け暮れる村民を戒める為にある日
神様が岩を真っ二つに割ったという伝説がのこる岬です。
私は、ここの岬の風景なら一日中眺めていられると思うほど、この風景に圧倒されています。
神の手をもって隔てられたとしか思えないほどみごとに真っ二つに割れた巨岩の間を荒波が通り抜ける様を
初めて見たときは、人間の力などまったく非力である・・・と何故かつくづくと感じられて涙が出そうになりました。
私は、”我は海の子♪♪”そのもので育った者ですので、小さい頃から海に慣れ親しみ、
多分かなり泳ぎも得意な方ではありますが、
それと同時に、小さい頃から海の恐ろしさを感じてもいました。
これは教育というよりも遺伝子レベルというかDNAまで染みついているほど海は時として怖い物だ。
という感覚があります。
この神割崎は二つに割れた岩が押し寄せる荒波から守ってくれる為に、ぎりぎりで波の脅威から逃れる事が
できますが、それでも、自分のDNAレベルでの海への恐怖を喚起してくれる場所だと思っています。
ここは写真好きには格好の撮影ポイントで、南三陸町も神割崎写真コンテストを催していたくらいで、
日の出や、雪の日はそれはそれは美しい写真が撮れます。
これは展望場所からの写真です。
私は以前からこの松の感じや岩の色が、フランスのブルターニュ地方もしくはスペインのガリシア地方
に非常に似ていると皆に吹聴していたのです。
神割崎の民話にも代表されるように、この辺りは民話も多く存在し その辺りも民話の多いブルターニュ地方と
似ているな~と勝手に親近感を感じていたのです。
頑固者で、第一印象が悪いブルターニュの人。
困った時に本当に頼りにできるフランスの友人は何故かブルターニュ出身なのです。
なんだか、そういうところも東北の人と似ています。
アンヘリートさんにとって良い旅というのは、単純に ”美味しい物が食べれる旅” 。
偶然、開催されていた地元の祭りに遭遇した為、彼にとって最高の旅になりました。
魚介類が犯罪的な程に高いMadrid生まれのアンヘリートさん・・・・・・
しかも、ホタテなんて物は滅多に手に入りません。
ガリシア地方を旅したときに、高いお金を出して貝のまま焼いたものをありがたく頂く彼には・・・
新鮮で、しかも安いホタテの貝焼きに目が釘付けっっっ!!!!!
”じゅ・・・じゅ・・・十個・・・くらいまとめて買いたいっっっ・・・・・・!
と我を忘れるアンヘリートをなだめすかして、とりあえず皆で食べる分を買いビールのケースで作られた
簡易の椅子に座って、しばし海産物を賞味・・。
う・・・・うまい・・・・。
うますぎる・・・・。
ってか、普段自分がMADRIDで食べている魚介類がいかに高くていかにまずいかを思い知る瞬間でした。
ちなみに、このもろディープな三陸沿岸部でのローカルな祭りに紛れ込んだ”ガイジン”の旦那ですが、
”ガイジンの気配消すよね。。。。。。”
と周りに感心されるほど、ガイジン臭がない為に普通になじんで屋台で魚介類買いまくって賞味していました・・。
アンダルーのアンヘリートは髪や目の色も濃いし、行動が日本人っぽい為なのか、
かなりのディープ東北ワールドでも、大抵の場合”ふと気付けばガイジン” という状態でした・・・。
本人も日本人ぶって行動している辺りがさりげなく偉いなと思いました。
ディープスペインワールドで、このような腹のくくり方は私にはできません・・・。
この日はお天気も良くて、祭りに集まった人も地元の人が中心で混雑もなくて
美味しい魚介類をのんびりと食べて潮風をあびてそしてビールを飲む・・・・。
こういう地方でののーんびりイベントを体験すると、
人疲れする東京のイベントなんてぜーったい行きたくない、と思いますね。
スペインもこういう地方のイベント多いですよね・・・・。
この日奇しくも、子供の日。
南三陸町の象徴である、魚(鯉)が、ハタハタとはためいていました。
あの時、祭りに参加していた町の方々は皆無事だったのかな・・・?
海に面したホテルのロビーの女性・・・。 酔っ払った海のおんつぁんにも優しく対応していた優しい彼女。
みんな、みんな 無事だったかな???
きっと一緒に復興していきましょう。
あの日海が荒れていて果たせなかった南三陸クルーズ。
いつか、数年後か、10年後か・・・絶対、またやりたいと思っているんです。あのメンバーで。
その時まで、一緒にがんばっっぺしね・・・
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ちょっぴり妊娠しているだけ
はじめに誤解の無いように明言しますが、私の妊娠報告ではありませんっっ!
プレママ記事かと思われた方ごめんなさい。
内閣官房参与に任命された、原子力の専門家で東京大学大学院教授の小佐古敏荘氏が辞任しました
が、その会見の報道を見ましたが、辞任理由を語られる肝心の部分はあまり放映されず、
報道の画を見る限りは、疲れた涙もろいおじさんの会見という印象すら与えるような編集の仕方・・・
この方の辞任理由の全文を読まなければ恣意的な画に誘導される~!!と 色々探しまして
で、
いつも興味深くみているこの方のブログで見つけました。 梟通信
NHK かぶん こちらからも全文が読めます。
是非、 じっくり全文を読んで見てください。
この方の仰っている
ただ、まだ対策が講じられていない提言もあります。とりわけ、次に述べる、「法と正義に則り行われるべきこと」、「国際常識とヒューマニズムに則りやっていただくべきこと」の点では考えていることがいくつもあります
を読んで、一瞬背筋に悪寒が走りました。
法と正義と国際常識とヒューマニズム、これのどれにも則っていないとしたら、
一体何に則って政策を決めているのでしょう?
Courrier Japon (日本語の雑誌です) に連載されている記事で、私が一番好きなのが
”越境者的ニッポン”
という時事批評なのですが、これはオーストラリア在住でばくち打ち兼作家の
森巣 博 という方が書かれている連載です。
この方は自分のことを”チューサン階級”に属する。と言います。
中学3年生程度の知識の持ち主という事なのだそうです。
以前からこの方の視線の的確さ pertinent(仏)、pertinente(スペ) が小気味良くて読んでいたのですが
原発事故に関する記述はまさにpertinent !!!
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(東電が)広告主としてばら蒔いた大金で言論誘致はできた。安全保守を無視したコスト・カッティングで
利益はあがる。結果として生じた事故の損害補償は、最終的には国民が負担することになる。
これが、本連載で私がたびたび主張してきた
”利益の私益化、費用の社会化” の典型例である。
<中略>
After me the deluge, ( この方はこれを、おとーちゃん・おかーちゃんが美味しく頂いているお饅頭代金は
私達の死後に、おまいらが支払うんだよ。わかったね。国民ども。と訳しています。)
とはまさに、霞が関を中心とした日本の支配システムそのものじゃなかろうか。自分の任期中だけ、
何ごとも起こらなければ、それでいい。問題は先送り。しつこいかも知れないけど、そうやって、
日本国債、地方債の発行総額はすでに1000兆円を超えた。
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まさに!!
新聞の記事に
一私企業が起こした被害にも関わらず、国が東電の知りを拭く形となる、
とありますが、
国といったって、政治家や霞ヶ関の人の懐からお金がでるわけではありませんよ、
国民のお金から拠出されるわけですから。 国が・・なんて他人事に聞こえるのは私だけでしょうか??
” 利益の私益化、 費用の社会化 ”
とは本当にそうなんです!
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電力業界から多大な研究費を頂戴している専門家のセンセたちが、新聞・テレビでも、ほぼ同様なことを
おっしゃった。
しかし真夜中をすぎると”事態悪化”の発表。
関東・東北の人達は、毎朝目覚めるたびに、すこしずつ、しかし着実に確実に最悪の事態を想定しなければ
ならなくなっていった。そんな日々が福島第一原発の事故発生から3週間ほど続いたのではなかろうか。
殆どの日本国民は頭で考えない。新聞・テレビの書くこと、いうことどおりに行動してくれる。
国民にパニックを起こさせない、という言い訳で、いきなり真実は伝えない。すこしずつ慣らしていく。
都合の悪い情報は”風評被害”のレッテルを貼り付け封印する。
”ちょっぴり妊娠しているだけなんだから” まだ大丈夫、心配ない、安全だ。国民もそのうち慣れて、
自分たちが置かれた非常事態に従順にすこしずつ適応してくれるんじゃなかろうか。
”茹でガエル”であり、”ちょっとだけの妊娠”だ。
おそらく政府・東電・保安院は。この非常事態をそういうメディア戦略で乗り切ろうとしたんだろう、とわたしは
邪推する。
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私も邪推します。
原発の事故の初期の頃は東京にいて、家族の事や津波の事で頭が一杯で
思考が半分とまっているような状態でしたが、
それでも、彼らの発表、政策に何かおしりがむずむずするような感覚を感じていました。
何か、理屈がおかしい・・と。
そう、それは誰かに” ちょっと妊娠しているだけだからさ。” などと言われる感覚に似ていた。
中学3年生の知識と常識があれば
”うん、でも数ヵ月後にお腹がせり出してきて・・・そして、そして・・・”
と思うはずです。
私は、事故の直後だって、買いだめして西に逃げたりもしなかったし
それどころかその後東北地方にいたわけですから、
国外の安全地帯にいて 危険を煽りたいわけではありません。
ただ、本当の事を発表して、そして
法と正義と国際常識とニューマニティに則って政策を決める事を望みます。
危険を煽る事と、これらを求める事の間には確固たる違いがあると、私は思います。
”ちょっぴり妊娠している” 式の理屈にはもう
ras le bol !!!! うんざりです。
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あの時にあったこと(すごく個人的な話しですが・・)
アンヘリートさんも私もカレンダー通りにはあまり動かない仕事なのですっかり失念していましたが・・。
そういえば、スーパーにウサギの形したチョコレート置いてありましたね・・。
今日はそんなのどかなSemana Santaの雰囲気にそぐわない。(;°皿°) 内容ですが・・。
ずーっと書きたかった事です・・・・。
3月11日の津波の日から日にちがたって、新聞では”あの日あの時に合った事”を検証する記事が
多く見られます。 皆さんそれぞれの状況、それぞれの決断、それぞれの行動、それぞれのその後・・。
一体、生きている人とそうでない人の線引きはどこでどうやってされたんだろう??と何度も自問しましたが
当然ながら答えなんて出ませんね。 それでも自問はやめられません。
そこで私の家族にあの日、あの時に起こった事を今日は書きたいと思います。
まず、うちの両親の家は港から300メートルくらいの距離で、家の前にはただ海があるのみの
津波の被害を誰よりも真っ先に受ける位置にあります。
当然、私達の間では ”津波が来たらどうする?”という話しはいまだかつて何度となくされてきた話しで
実は、普段住んでる両親は
”(3階建て家屋の) 屋上に逃げれば良いでしょう!”
と緊張感がなく
普段はそこに住んでいない、私と姉妹の方が
”絶対、屋上なんてだめ! 近くにある高台に逃げないとだめだよ!!”
と説得を試みるも相手にされない、大体はそんな流れの会話をしていました。
あの時は出産の為に里帰りしていた妹と母は家にいて、父は家から車で5,6分の距離の所にいました。
妹は出産後数週間しか経っていなくて、病院に一度行った以外はほぼ外に出た事がないような状態でした。
長い、長い地震が終わった直後に (地震が終わらないうちだったと言う人もいますが)
津波警報のアナウンスが入ったようです。 ( 全ての地区で聞こえていたのかは不明です )
ちなみに地震が終わってから津波の第一波が到着したのは新聞発表を見ると
家の実家の周りは30分強だったようですが、
家族、親戚共に皆口を揃えて ” 15分から20分くらい ” に感じたと言います。
妹と母はすぐに高台に避難する準備を始めたようですが、妹は地震の恐怖と津波がいつ来るかと
いう恐怖で、頭も体も思うように動かず 部屋着から暖かい服に着替えようとした時に
服に足を通す、という単純作業すらもままならなかったと言います。
妹の目にはうちの母は頼もしい程落ち着いていたように見えたのだとか・・。
でも赤子連れの娘の前で取り乱すわけにもいかないだろうし、内心はどうだったのかいつか
じっくり聞いてみたいところです。
妹はケータイ電話をしばらく探したようですが、すでに停電も始まっていて天気の悪いあの日は
昼間でもあまり細かい所が見えなかったらしく、すぐにあきらめたようです。
そうこうしているうちに外にいた父も車で帰宅し、準備を始めました。
入れ違いに妹は僅かな赤ちゃん用品を肩から提げて、赤ちゃんを毛布に来るんで
先に徒歩5分の高台の建物を目指して家を出ました。
父は、停電のせいでうまく閉める事ができなくなった電動の扉を閉めようとしばらくねばったようですが、
あきらめて出発する事に決めたそうです。
父が扉と格闘している間に、母はとりあえずの現金や印鑑、書類の一部を手堅く持ち出したようでした。
(後日、この話しをアンヘリートにすると ” やっぱり・・・・お母さんならできる・・・”と言っていた、鋭いゾ)
二人は一緒に家を出たようですが、父は父の車、母は母の車でそれぞれ妹がいる高台の建物を目指しました。
うちの両親はここに住んでかれこれ40年ですから、勿論ご近所さん達全て顔見知り、
田舎のご近所さんですから、かなりの団結力の強さがあり
うちの両親も近所の様子をチェックしたようですが、近所の人たちは驚くほど行動が早く
うちの両親と3件隣のご近所さんと、2件隣のご近所さん以外は皆、避難した後だったという事でした。
2件隣は大人2人と小さい子供が1人。
普段はかなり元気印のここの男の子が恐怖の為に激しく泣いていたのだとか・・
それでも全員車に乗り終えた様子。
3件隣は大人3人(うち高齢者一人)、 一旦車に全員乗り終えたものの一人が車から降りて家に入るのを
うちの母は見かけたのだとか・・
家の両親はこの両方の家族に
”先に行きますけど、急いだ方がいいよ、後で。” と言って車を走らせました。
父はこの時に海の様子を見て、まだ引き潮になっていないと思い
”まだ津波は来ないだろう” とふんであまり急いだり、焦ったりもしていなかったようです。
しかも、高台の建物で一旦妹と合流すると
”忘れ物もしたし、家の扉を閉められなかったのは心残りだから一旦家に戻ろうかな?”
などと、今思えば恐ろしいことを口にし
母に
”こういう時に家族がバラバラになると余計な心配を増やす事になるから、一緒にいるべき”
とぴしゃりと言われて、建物内に残ったようです。
普段はくだらない事でも意見の不一致の為にあーだこーだと言い合ううちの両親もここでは
合意に達したようで・・・・。 次からは私も母の教えは素直に聞きますよ・・・・。
ちなみに父と反対に家の母は普段かなり家族との関係にあっさりしているというかなんというか、
私などは1ヶ月も2ヶ月も電話しない時もあるし、そうかといってたまに電話すると
”今、NHKの大河ドラマ見ているから話せない。” と、あっさり言ったりするのでこちらも
電話のし甲斐がないとも言えるし、遠く離れている身としては気が軽い・・なんて思っていたのですが、
そんなあっさりしている母から出た言葉としては、含蓄が深いなぁ。
母は小さい時に母親と弟を、若い時に父親を亡くしているので、その辺の事とも関係しているのかもしれません。
そこで、3人は一旦建物内に入って何気に大きいガラス窓から町を見下ろしたら、
すでに港の辺りのかなりの建物が水の中に沈んでいたと言うのです。
一瞬、何が起こったのか理解できなくてボーゼンとその光景を大勢の人たちと見つめていたらしいのですが
妹曰く、その時点で3階建てのうちの家は屋根すらも見えなかったそうです。
そうこうしているうちにあちこちから ” 水が上がってきているぞー!” の声が上がりはじめて
その場にいた人達は階段で上の階を目指し始めたのですが、
そこはお年寄りや病人も多く車椅子の人も何人かいたようです。
うちの妹の前には車椅子の人がいて、3人がかりで脇を支えて階段を上っていましたが、
妹も赤ちゃんを抱いていたので、さほど早くは歩けなかったのですが、
なんと後ろにいる中年の男性があろうことがぐいぐいと後ろから押してくるのだとか、
普段は大人しい妹ですが、言う時は言う (結構怖いよ。) 彼女が
”赤ちゃんを抱いているんです。押さないで下さい”
と言ったらしいのですが、 それでも何度も強引に押して来てついには彼女を強引に追い越して
しかも、車椅子の人を助ける事もなくさっさと一人で駆け上がって言ったのだとか !!!
後に妹は” うちの町はいい人ばっかりだった!しかしあいつだけは許せん・・・・ ” と怒りに燃えていました。
結局、そこにいた皆は4階まで避難しましたが、そこの建物は1階部分は天井まで水が入ったそうです。
それでも、新聞にはそこの建物にいた人で車椅子ごと流された人がいたがそこにいた人達が助け合って
なんとか逃れられたとありましたが、地元の人によれば2人が流されてしまったのだとか・・。
いつも、あそこの建物なら大丈夫だよね・・と言っていたのに・・・。
今回の津波がいかに予想を超えていたという事なのです。
先ほど話したご近所さんの話しに戻りますが、
2件隣の大人2人と子供1人は、うちの家族が避難した所よりも高台だけどちょっと遠い、車で7,8分の所を
目指して車を走らせていたところ、高台に上がる長い坂の麓にたどり着いたときに
バックミラー越しに後ろから刻々と押し寄せる波が見えていたと言います。
普段はおとなしい彼女がそれでも、冷静に車を走らせて高台まで逃げ切ったと聞いたとき
これは大げさでなく手に汗を握りました。
そして3件隣の、忘れ物を取りに家に戻ったらしいその家族の方たちは、まだ行方不明のようです・・・。
私も小さい時に何度も遊びに行った、穏やかで優しい人たちだったのですが・・・本当に残念でなりません。
心からご冥福を祈らずにはいられません。
私がこのような家族の経験を書いても、実は後の防災に役立つとはあまり思えません。
全てはあまりに偶然の上に成り立っていて、あまりにもろくて後からいろいろと説明をつけても
なんとなく空しくなるからです。
岩手の沿岸部には ” 津波が来たらてんでんこ” という教えがあるそうですが、
津波が来たらまずは子供も親もなく自分ひとりの身を守れ、という事ですが
うちの父などは比較的安全な高台にいたにも関わらず、車にのって低地の港の近くまで
来てしまったわけですから、その教えには背いたわけですからね・・。
自分の家族の命が無事だった事を喜びつつも、でもどうして無事でなかった人がいたのか、
何故?何故? という疑問を何度も何度もぶつけました。
勿論答えは出るわけはないのですが・・・。
避難所で困難な生活をしている人達がテレビの前で
”自分達はまだマシなんだ ” ” 命が助かったんだから文句は言えない”
というのを何度も聞きましたが、 多分彼らの中の多くの人が
うちの家族のような、もしくはそれ以上の不条理な様を見てきたと思います。
今日のこの内容は、ちょっと重かったですね。 書いているこちらも何度も手が震えましたが、
もっと深刻な被害に合われた人がご覧になって気分を害したらどうしよう・・・とも思いましたが
でも、書いておきたいと思ったのです。
前回のブログのタイトルではありませんが新聞やテレビでは語られないけど
あの日、あの時、大勢の人がそれぞれに壮絶としか表現できない体験をしているんだという事を
私の立場で書くべきなのかな・・・と思って書きました。
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一人におきた何十万の大きな事件
これはビートたけし氏が先月雑誌に語った今回の震災に関する言葉らしいです。
らしいというのは、私自身がこの雑誌を読んだのではなく、twitterでRTしている人が多かったので
目についた文章なのですが、東京にいてかなり切羽詰った時に読んだ文章だったので
かなり強烈に胸にひびいたのですが・・・
この2万人というのはこの時点での死亡した数が2万人だったからだろうと思うのですが、
死亡した方の家族や友人、そして家や町を失った人、その人たちの家族や友人関わった人全てをいれたら
一人の人生を一瞬にして変えた何十万の事件なんだと今あらためて実感しています。
宮城県栗原市出身のライター ”クドカン”こと工藤勘九朗さんが ( ←ぶちさん知ってるでしょ!)
”3月11日以前にかいた台本が別の物に見える”
とおっしゃっていて、私ごときのブログでさえ 全く同じように感じています。
3月11日前と後、 その間にはあまりに大きな違いがありすぎます。
ちなみにクドカンさんの出身地、栗原市は地盤の関係なのか 宮城県ではいつも地震の規模が一番
大きくなるのですが、内陸部なので津波の被害はない場所です。
結局のところは
一人のうえに起きた何百万の人生を変えるような事件 と言えるのかもしれません。
このビートたけし氏の言葉は、
メディアが発表する数字や情報だけを見ないでそれに関わる一人一人の生活や人生を考える想像力を持て!
という被災地以外の人へのメッセージだと思うのですが
復興政策に関しても可能な限りこの想像力を働かせて欲しいと思うのですが・・・
こいういうのを見るとため息がでます。
こちらの記事を読んで見てください。
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がれきの中にプレハブ 仮設抽選外れ、自力で自宅跡
がれきの中に、プレハブの住宅がポツンと立っている。津波が川を逆流し、65戸あった民家が1軒を残して全壊、流失した岩手県陸前高田市気仙町の荒町集落。宮大工の熊谷立郎(たつろう)さん(78)が、流された自宅の基礎の上に建てた。
完成した13日、妻の和子さん(73)、次男で水道工の紀男さん(45)、おいの優人さん(22)と車座になってカップ麺の夕飯を食べた。「やっと落ち着いたな」。そう話す熊谷さんに、紀男さんは「寝るとこも決まったし、出稼ぎにでもでるかな」とつぶやいた。
地震後は避難所にいたが、「やっぱり荒町に戻りたい」と、自宅跡でテント暮らしをしながら、がれきの撤去を続けた。市の復興計画のめどは立たず、仮設住宅の抽選にも外れ、自分でプレハブを建てることにした。
水や食べ 物は支援物資でまかなう。夜は支援者から送られた懐中電灯などを使って過ごす。近くには数日前、仮設トイレも置かれた。熊谷さんは「ここは海も山も川もあ るいい町なんだ。誰かがここにいないと、みんなが戻って来られない」と言うが、市の計画次第ではプレハブを出る準備もあるという。
陸前高田市は「津波やがれき撤去で危険があるので、復興計画ができるまでは被災地域での建設は自粛をお願いするしかない」(須賀佐重喜・建設部長)と複雑な思いだ。現時点で、岩手県は同市で建築基準法に基づく建築制限をかけておらず、直ちに違法とは言えないという。
被災地では、宮城県が気仙沼市など5市町で同法に基づく建築制限をかけることを表明。同県石巻市も独自に規制をかけている。(贄川俊、牛尾梓)
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まずこの方の年齢78歳です。 写真で見る限りかなりお若く見えるし
こんな辛い事があった後に、78歳が自分でプレハブ建てるなんて。なんて前向きで独立心旺盛なんだ!!!
ほんとに 浜のおんつぁん達、 かっこ良すぎる。
陸前高田市の複雑な立場は分かるけど、この人の気持ち分かってくれよ!! もうっっ!!
結局、復興の過程なんてこういう事の繰り返しなんだと思います。
建築制限なんて役人が持ち出した決まりは、この方の78年の人生、この方の先祖が過ごした何百年の時
を前にしてあまりに無意味に感じるのですが・・・。
しかも、この方 ” 市の計画次第ではプレハブを出る準備もある・・”って・・・・ 柔軟です。
陸前高田市、どうぞこの独立独歩で行動力のある78歳の方をよろしくお願いしますよ、本当に。
あと、もう一つ
Twitter で見かける情報、
個人、または企業から送られた救援物資に関してですが、
避難所なり、自治体の全員に配られる充分な数がない場合は、受け取った救援物資は配布されない
のだそうです。
そして、その物資はため置かれる事になり 結果として充分足りていると誤解される事があるのだとか・・。
うちの家族は初めの数日間しか避難所にいなかったのですが、
確か妹も ” 8000人の人がいて5000個しか物がなかったらそれは不公平になるから配布されない”
と言っていて、津波直後の極限状態でもそうなのか!!と驚いたのを覚えています。
で、持っている救援物資と欲しい救援物資のマッチングを行う下記のサイトがあります。
お願いタイガー (←クリックして下さい)
これだと、自治体やNPOを通さずに直接、今あるものを有効活用出来ます。
ただし、これはネット環境が整ってない場所や、またお年寄りなどインターネットが使えない人たち
にはちょっと不便である事は確かですね・・。
結局の所、ネット環境が使える自治会や団体が代表して窓口になる事になるのでは・・・と思いますが
それでも、これは有効なシステムだと思います。
お願いタイガーのタイガーは、勿論、あのタイガーマスクの事です! はは!名前も覚えやすい。
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