或いは失踪
去る5月12日、彼は私のもとから失踪し、行方をくらませています。
私は彼とこれから何をするというわけでもないので、特別彼を探したりはしておりませんが、とにかく、私にはどこに行ったのか心当たりもないのです。
彼と共にすごした時間はとても幸せでしたが、そんなことはどうでもよいのです。
きっとどこかをほっつき歩いているのでしょう。きっとすぐにまた帰ってくるかと思います。
ところでこの夏は暑く、とにかくじわじわうるさい蝉の声、何もする気が起こらないほどの熱気は、私をどんどん暗闇へ引き摺り下ろしてゆくようです。
「海に行きたい。」
つぶやいても聞いてくれる人はいません。私には彼がもういないのですから。
なめられるような感覚を思い出したりもしましたが、そんなことはありえないのです。私は彼に触れられたことすらないのですから。そして、私も彼に触れたことはないのです。つまりわれわれには一切のフィジカルな関係はなく、物理的なつながりさえなかったのです。
完全な意識の共有によってしかわれわれはつながることができないので、私は彼の姿も知りません。だから、確実に彼が失踪したのか、と聞かれると、いささか自信がないのが本音であります。
私にその存在を悟らせないようにじっと動かずにいるのかとも思いましたが、3ヶ月もそれを続けるのは非常に困難であると思われるので、この可能性は除外しようと思います。
「暑い、暑い、暑い。」
汗が背中を伝うので、私はその不快感に顔をしかめます。
夏は嫌いです。
私は、気晴らしに、家の中より暑い家の外に出てみました。暑さの基準をあげようと思ったのです。浅はかでした。
通りには誰もいません。アスファルトから陽炎が立ち上っています。見ているだけで暑くなりそうです。鉄板の上で焼かれる牛肉の気持ちです。いえ、そんなものになった覚えはございません。
「あれ。」
ふと、後ろから声がかかりました。振り向くと、赤いタンクトップが印象的な男友達でした。
「どうしたの。」
「ちょっと暑いから、暑さの基準をあげようとおもったの。」
そういうと彼は笑いました。その顔がとてもかわいいので、それから、汗が流れる様子がとても生々しいので、彼をじっと見つめてしまいました。
これはそう、暑いから、暑いから、思考回路が変なのだわ、と思いました。
夏なんて嫌いです。
私はただ、彼から視線を動かすのが面倒なだけなのです。
彼が帰ってきました。
「おかえり」
とつぶやくと、目の前の友達は不思議そうな顔をしました。
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たまには長い文章も書きます。
暑さでとちくるっているのは、私です。
落下速度
公園にあるブランコ、エレベヴェーターや、遊園地によくあるヴァイキング、フリーフォール。見つかる限り、その類に乗ってはそこに存在する快感をむさぼる。
大事なのは、落ちている、という継続的な状態ではなく、頂点に上り詰めた次の瞬間にやってくるまったく重力とは関係なくなる状態であって、脊髄をひゅん、と駆け抜けるぞくぞくしたあの感じが好きなのだ。
上ってゆくことも、落ちてゆく、というのも、どちらもあまり好きではないが、そのポイントを味わうために、私はそのどちらも我慢する。
とにかく、私はその感覚を味わうために、わざわざヴァイキングとかパイレーツとか呼ばれるアトラクションに乗るために、毎週遊園地に通う。
もっとも、と私は思う。もっと手軽にその感覚を味わうことも可能だ。男がいればいい。
パートナーと言うべき男がいて、彼がそれなりに上手ければ、その感覚を手軽に、移動しないで味わうことは可能であるはずだ。ただ、そう言う男性があまりにも少なくて、今の私にはそんな人がいない。
だから今日も電車を乗り継いで、遊園地に向かう。
「おとな一枚。」
そう告げると、受付の女は私を哀れむような顔をしそうになるのをこらえながら私の注文を繰り返す。
「大人一枚、入園料は千円です。」
私は黙ってその分を手渡すと、入場券を受け取る。ヴァイキングは一回乗るのに四百円か五百円。
券売機でそのチケットを買うと、じっとアトラクションの外から次の回を待つ。一番後ろの列に座れなければ意味がないのだ。講義を取らずにわざわざ休みにしている水曜日の、午後の3時に、そこまで人はいないけれど。出来れば、列に並ぶ時も一番前にいたい。
なぜならこれは、私にとってとても重要な事なのだから。たとえばこれで、真ん中あたりの席などに座ってしまったとしたら、お金をどぶに捨てているようなものだ。
列に並ぼうとすると、男と鉢合わせた。見たこと無い男だった。
「すみません。」
私は出来るだけ感情を出さずに言った。
「こちらこそ。」
彼も感情を出さなかった。
彼は私に一番前を譲ってくれた。なかなかイイやつだ、と私は素直に好感を抱いた。
彼はひょろっとした体格だった。顔は、なかなかかわいい。特に目は印象的にアーモンド型で、瞳は黒かった。背は、私よりも高い。
何を、冷静に観察しているのか。
「何か。」
彼は私に見られていることに気がつき、そう言った。声はバリトン。高すぎず低すぎず。あぁ、今私は、とても危険だ。
「別に…。」
知らずに失礼な口調になってしまったが、気にしないことにして、前にむき直した。きっと彼は、なんていやな女だ、と思ったことだろう。
そうこうしていると、ゲートが開く。私は、なるべく落ち着いて一番後ろの列に腰掛けた。堂々と、座席の真ん中に。
人がまばらで、私と彼と、カップルが二、三組。
彼は私の真向かいに座った。彼も真ん中だった。
ひょっとすると、彼は私の同類だ。
ブザーが鳴って、お決まりのアナウンスが流れる。
そのアトラクションは、船の形をしているから、「海の旅に、いってらっしゃい」というのがだいたいの内容だ。どこの遊園地でもそう言う。だからもう、聞かなくてもいい。聞く必要なんて、最初から無いのだけれど。
少しずつ後ろに向かって上昇する。髪の毛が、頬に被さってくる。しまった、髪ゴムを忘れた。
ある地点で止まって、揺れる。
これくらいの高度では、まだ足りない。
彼と目があった。その目を見て、私は過去の男たちを思い出す。
彼はその後すぐにたばこを吸った。そうするのが好きだったから。私はその煙を吸うのが嫌いだった。なんだか、全部無くなった躯には、特に有害そうだったから。
彼はその後すぐにめがねをかけた。私はいつもめがねを外して、と頼むのに、彼は癖なんだ。と取り合わなかった。
彼はその後すぐに寝てしまった。疲れているから、と言った。私も疲れたので寝た。
彼はその後すぐに、
彼はその後、
彼は。
まだ高さが足りないけれど、落ちる瞬間の快感が増えてくる。
彼が下にいる。すぐまた彼を見上げる。
彼は細い。強制的で人工的な風を受けているので、いっそうそれが明らかになる。彼はとても細い。私の腕は、きっと余るだろう。彼を抱いたら。
高い、高い。ほとんど地面と直角になったのではないか、と思う。
ひゅん、と脊髄をかけてゆく快感は心地よく、私を浸食する。意識が振れきった先にぽぉん、と飛んでいったようだ。でも弾んできっと戻ってくる。すぐに、すぐに。興ざめなほどに。
止まっているのは世界で、動いているのは私。いつもは逆だけれど。
地面が見える、建物が見える、人が見える。その一種の恐怖に、私の目は一瞬でそれを現像しようと試みる。まったく不毛な試みだけれど。明らかにその瞬間は世界がいつもより鮮やかだ。
私の口からは声が漏れる。気持ちよくて、絶望的で、たまらない。きっと頂点に達した瞬間に落ちてしまったら死ぬだろう。この高さなら。
「あぁ。」
彼は私を抱く。まるで子犬を拾うように。私は子犬じゃない。
彼は私を抱く。まるで銅像のように。私は銅像じゃない。
彼は私を抱く。まるで魚のように。私は魚じゃない。
彼は私を抱く。
彼は私を、
彼は。
触覚を思い出す。味覚も聴覚も、視覚も、それから嗅覚も、全部、全部放り出す。ぞくぞく、広がるなにか。それは触覚に属するのだと思う。たぶん。ぞわぞわがひろがる。躯は軋む。
自分がどこにいるのか、分からなくなる。浮いてゆくのか、落ちてゆくのか。或いはまた、本当はどちらでもなく、ただ地面に寝ているだけなのか。
あぁ、もう終わってしまう。
高度を落とす船の突端。こういう余韻は、割と好きだ。いきなり止まられないのが、心地いい。
彼が見えた。彼はこちらを見ていた。
ふわふわと、地面に降りたつ。躯が動くたびに、意識が飛んでゆきそうになる。いつもそうだ。意識と躯のつながりが、希薄になる。風船の糸で、つながっているだけだ。ヘリウムガスは、空気より軽いのだ。
突然、彼が腕をつかんで来た。
彼は、その間、私と指を絡めた。
彼は、その間、私の胸に顔を埋めた。
彼は、その間、後ろから私を抱きしめた。
彼は、その間、
彼は。
「あの。」
あぁ、その先は言わないで。
風船の糸は切れる。
そして私はまたどこかに落ちる。
きっと。
「何ですか。」
「いえ…。」
「用がないのなら、失礼。」
「あの。」
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友人に見せるために書いた作品。
ゼミで読んでいるフランス語の小説に影響されているのが見え見えです。