人を殺す夢
あの日あの時聴いた音は、多分二度と帰っては来ないけれど、私は確かに、あの時絶望していた。
彼の音の総てが、まるで私の二歩も三歩も先を行っていて、私はどうしてもその音に成ることは出来なかった。彼の様な音を出したいと、心の底から嫉妬し、羨望し、それから絶望した。私は彼にはなれない。
あの時私は世界のことが嫌いだった。自分とは相容れないものとしての世界は、何故か美しく見えたりしていたけれど、結局のところ、私は私が嫌いだったのだ。世界とは自分なのだから。
だから彼の音を聞いたとき、彼は間違いなく私と同じ世界を見ているのだろう、と思った。私より深いその絶望、憎悪、悲壮、残酷、あらゆる負の寛恕がほとばしっていたので、私は彼に興味を持った。
レッスン室に差し込む光が、殆ど物体の色を反射せずに流れ込んでくる。光の当たっている場所だけ、真っ白く見えた。私はいつも通り退屈な教師の戯言を聞き流しながら、窓を見ていた。世界が眩しく、殆ど何も見えなかった。
「四季さん、ちゃんと聞きなさい。」
「聞いていますよ、先生。」
見れば見るほど反吐の出るような彼女の顔を見ると、明らかに不機嫌な顔をしていた。私はその理由も分かっていたし、これから来るだろう言葉も予想できたので、不機嫌になった。
「いいですか、貴方は…貴方は不真面目すぎます。そんなに私が気にくわないのなら、もう出て行って結構です。レッスンの先生は、変えていただきましょう。」
私はあの時の彼の音を思い出しながら、無言で楽器をかたづけた。それから教師をにらむように一瞥して、レッスン室を出て行った。
「四季、また追い出されたの?」
「…なんか用?」
「何人目?」
「なんで話しかけるの?」
「会話に成ってないね。」
歩いている私に話しかけてきたクラスメートの京子は、そう言って肩をすくめた。彼女はその場で立ち止まる。私は歩き続けた。後ろから
「私、貴方に嫉妬してるから。」
と声が聞こえた。多分私の問いかけに対する答えだろう。私はその声を聞いてはいたが、立ち止まる気にはなれなかった。
あの日以来、彼の音を聞く機会がなかった。同じ大学で、同じ学年で、同じヴァイオリン科専攻なのに、会うこともなかった。でも彼を見つけてどうするというのだろう。話しかける?まさか。見つめているだけ?そんなのはあり得ない。では何を。
しかし私は明くる日、その機会を得た。バスを待っていると、彼が後ろに並んだ。彼は楽器を持っていなかった。
「あの、楽器は。」
驚いたことに私の口は知らないうちに動いていた。彼は一瞬驚いた顔をして、ゆっくり微笑んだ。
「もう楽器は、弾かないことに決めたんです。」
「なんで?」
私の声は反射的に叫び声のようになっていて、さらに彼の服をひっつかんでいた。酷くばつが悪かったが、もう、どうしようもなかった。
「僕の楽器が、人を殺したからです。」
「僕の父も、音楽家で、そこそこ名の売れた人物でした。」
聞くと私も知る有名なヴァイオリニストで、私も何枚かCDを持っていた。
「常日頃から僕に…『才能のない芸術家は、存在する意味がない』と言っていました。」
夕暮れの公園で缶コーヒーを飲みながら、彼の語る話に呆然と耳を傾けた。いったいこの話の着地点はどこなのかと、疑問に思いながら。
「それでこの前…演奏会の後に、父親が、僕に言ったんです。「お前はどうやら私より才能がある。」と。」
一瞬間をおいて、彼は続けた。
「その翌日に。」
「四季。」
「…京子。」
「変わったね。」
「…なにが。」
「うーん、総てが。」
「でも僕は、父の気持ちがちっとも分からないのです。」
彼は顔を覆った。泣いているのかもしれなかった。でも私は言った。
「解らなくて、いいと思います。」
私はこれがどんなに残酷な言葉か、知っていた。
「変わったって、どういうことよ。」
「うん、会話が、成立するように成ったかな。」
京子は無邪気に笑って、食べかけのハニートーストを頬張った。私は窓の外を眺め、相変わらず白い世界を見ていた。
彼がぐったりとうなだれたまま動かないので、私はもっと残酷な言葉を吐いてやろうと逡巡した。逡巡するまでもなく、私はその言葉を持っていた。
「私がいつか、解らせてあげましょうか。」
こんなやつ、つぶれてしまえばいい。自分に才能があるのかどうか解らなかったけど、私はその日から、狂ったように練習を始めた。
「君は、前の先生から聞いた話とはまるで違うね。」
新しいレッスンの教師は満足そうにそう呟いた。あぁ、どうして前からこうしなかったのだろう。教師なんて、使えばいいのだ。幸い彼は、私の演奏の方向性については何も言わなかった。優秀な彼は、私の必要とする情報だけを与えてくれた。
「でもね、君は欠けている。」
「何がですか。」
ある日突然彼がそういったので、私は驚いた。同時に、またか、という気分でうんざりした。そういった抽象的な精神論は、もう聞き飽きていたのだ。
「精神的なものさ。」
「たとえば。」
「そうだなぁ、慈愛、かな。」
「はぁ。」
「アガペーとも、言うね。」
そんな言葉は、高校の倫理の時間以来聞いていなかった。
「卒業演奏会、何弾くの。」
「ニールセン。」
舞台袖で、私は彼の演奏を見ていた。本当は見ていたくは無かったし、聞きたくも無かったけれど、演奏順が彼の次だったから仕方ない。
私はもう、彼の音に絶望しなかったし、指先も震えなかった。
彼の演奏はすばらしく、演奏終了後には割れそうなほどの拍手がわき起こっていた。私はその拍手のなかを歩き、舞台中央で立ち止まった。しん、と静まりかえる。私は、もう堅くなって何も感じなくなったはずの指先を、弦に食い込ませるように押しつけた。微かな痛みが、私の記憶を洗った。
「初めて、父の気持ちがわかりました。」
翌日、彼は自殺した。私は私の叫び声がどこかとおくで響いているのを感じ、眼を閉じた。真っ暗だ。京子の声が聞こえた。私はなにか酷いことを言って、彼女の泣く声が聞こえた。総ては私の範疇のそとで起こっていた。何度も手を打ち付けて、使えなくなればいいと思った。制止する京子の声と手の感触がとても現実とは思えなかった。
「四季、私、もうだめ。」
私は無表情にそれを聞く。
「もう、ついて行けない。」
世界は白い。
「ごめん、ごめん。こんな、こんな…。」
「もういいよ、京子。」
私の口から出た一言は限りなく穏やかだった。京子は泣きながらレッスン室から出て行く。私はその背中を目で追って、ドアが閉まるのを確認してから、楽器を構えた。
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実際、映画撮るための脚本のプロットです。
彼の音の総てが、まるで私の二歩も三歩も先を行っていて、私はどうしてもその音に成ることは出来なかった。彼の様な音を出したいと、心の底から嫉妬し、羨望し、それから絶望した。私は彼にはなれない。
あの時私は世界のことが嫌いだった。自分とは相容れないものとしての世界は、何故か美しく見えたりしていたけれど、結局のところ、私は私が嫌いだったのだ。世界とは自分なのだから。
だから彼の音を聞いたとき、彼は間違いなく私と同じ世界を見ているのだろう、と思った。私より深いその絶望、憎悪、悲壮、残酷、あらゆる負の寛恕がほとばしっていたので、私は彼に興味を持った。
レッスン室に差し込む光が、殆ど物体の色を反射せずに流れ込んでくる。光の当たっている場所だけ、真っ白く見えた。私はいつも通り退屈な教師の戯言を聞き流しながら、窓を見ていた。世界が眩しく、殆ど何も見えなかった。
「四季さん、ちゃんと聞きなさい。」
「聞いていますよ、先生。」
見れば見るほど反吐の出るような彼女の顔を見ると、明らかに不機嫌な顔をしていた。私はその理由も分かっていたし、これから来るだろう言葉も予想できたので、不機嫌になった。
「いいですか、貴方は…貴方は不真面目すぎます。そんなに私が気にくわないのなら、もう出て行って結構です。レッスンの先生は、変えていただきましょう。」
私はあの時の彼の音を思い出しながら、無言で楽器をかたづけた。それから教師をにらむように一瞥して、レッスン室を出て行った。
「四季、また追い出されたの?」
「…なんか用?」
「何人目?」
「なんで話しかけるの?」
「会話に成ってないね。」
歩いている私に話しかけてきたクラスメートの京子は、そう言って肩をすくめた。彼女はその場で立ち止まる。私は歩き続けた。後ろから
「私、貴方に嫉妬してるから。」
と声が聞こえた。多分私の問いかけに対する答えだろう。私はその声を聞いてはいたが、立ち止まる気にはなれなかった。
あの日以来、彼の音を聞く機会がなかった。同じ大学で、同じ学年で、同じヴァイオリン科専攻なのに、会うこともなかった。でも彼を見つけてどうするというのだろう。話しかける?まさか。見つめているだけ?そんなのはあり得ない。では何を。
しかし私は明くる日、その機会を得た。バスを待っていると、彼が後ろに並んだ。彼は楽器を持っていなかった。
「あの、楽器は。」
驚いたことに私の口は知らないうちに動いていた。彼は一瞬驚いた顔をして、ゆっくり微笑んだ。
「もう楽器は、弾かないことに決めたんです。」
「なんで?」
私の声は反射的に叫び声のようになっていて、さらに彼の服をひっつかんでいた。酷くばつが悪かったが、もう、どうしようもなかった。
「僕の楽器が、人を殺したからです。」
「僕の父も、音楽家で、そこそこ名の売れた人物でした。」
聞くと私も知る有名なヴァイオリニストで、私も何枚かCDを持っていた。
「常日頃から僕に…『才能のない芸術家は、存在する意味がない』と言っていました。」
夕暮れの公園で缶コーヒーを飲みながら、彼の語る話に呆然と耳を傾けた。いったいこの話の着地点はどこなのかと、疑問に思いながら。
「それでこの前…演奏会の後に、父親が、僕に言ったんです。「お前はどうやら私より才能がある。」と。」
一瞬間をおいて、彼は続けた。
「その翌日に。」
「四季。」
「…京子。」
「変わったね。」
「…なにが。」
「うーん、総てが。」
「でも僕は、父の気持ちがちっとも分からないのです。」
彼は顔を覆った。泣いているのかもしれなかった。でも私は言った。
「解らなくて、いいと思います。」
私はこれがどんなに残酷な言葉か、知っていた。
「変わったって、どういうことよ。」
「うん、会話が、成立するように成ったかな。」
京子は無邪気に笑って、食べかけのハニートーストを頬張った。私は窓の外を眺め、相変わらず白い世界を見ていた。
彼がぐったりとうなだれたまま動かないので、私はもっと残酷な言葉を吐いてやろうと逡巡した。逡巡するまでもなく、私はその言葉を持っていた。
「私がいつか、解らせてあげましょうか。」
こんなやつ、つぶれてしまえばいい。自分に才能があるのかどうか解らなかったけど、私はその日から、狂ったように練習を始めた。
「君は、前の先生から聞いた話とはまるで違うね。」
新しいレッスンの教師は満足そうにそう呟いた。あぁ、どうして前からこうしなかったのだろう。教師なんて、使えばいいのだ。幸い彼は、私の演奏の方向性については何も言わなかった。優秀な彼は、私の必要とする情報だけを与えてくれた。
「でもね、君は欠けている。」
「何がですか。」
ある日突然彼がそういったので、私は驚いた。同時に、またか、という気分でうんざりした。そういった抽象的な精神論は、もう聞き飽きていたのだ。
「精神的なものさ。」
「たとえば。」
「そうだなぁ、慈愛、かな。」
「はぁ。」
「アガペーとも、言うね。」
そんな言葉は、高校の倫理の時間以来聞いていなかった。
「卒業演奏会、何弾くの。」
「ニールセン。」
舞台袖で、私は彼の演奏を見ていた。本当は見ていたくは無かったし、聞きたくも無かったけれど、演奏順が彼の次だったから仕方ない。
私はもう、彼の音に絶望しなかったし、指先も震えなかった。
彼の演奏はすばらしく、演奏終了後には割れそうなほどの拍手がわき起こっていた。私はその拍手のなかを歩き、舞台中央で立ち止まった。しん、と静まりかえる。私は、もう堅くなって何も感じなくなったはずの指先を、弦に食い込ませるように押しつけた。微かな痛みが、私の記憶を洗った。
「初めて、父の気持ちがわかりました。」
翌日、彼は自殺した。私は私の叫び声がどこかとおくで響いているのを感じ、眼を閉じた。真っ暗だ。京子の声が聞こえた。私はなにか酷いことを言って、彼女の泣く声が聞こえた。総ては私の範疇のそとで起こっていた。何度も手を打ち付けて、使えなくなればいいと思った。制止する京子の声と手の感触がとても現実とは思えなかった。
「四季、私、もうだめ。」
私は無表情にそれを聞く。
「もう、ついて行けない。」
世界は白い。
「ごめん、ごめん。こんな、こんな…。」
「もういいよ、京子。」
私の口から出た一言は限りなく穏やかだった。京子は泣きながらレッスン室から出て行く。私はその背中を目で追って、ドアが閉まるのを確認してから、楽器を構えた。
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実際、映画撮るための脚本のプロットです。