子どもの頃の話ですが、



朝起きた時の感覚に自分が振り回されてしまい、
一日中テンションのコントロールができなくて、
自分を持て余してしまうことがよくありました。





その日の予定に関わらず、
たとえその日に嬉しい予定があって、
楽しみにしていた日だったとしても、
朝、どんな感じで目覚めるかがわからなくて、
楽しく起きられますようにといつも思っていました。





それは、ずーっと続いて、
仕事をし始めた頃からは、
良い気分で起きられることがほぼなくなったような…
常に低空飛行で、
低い中での乱高下みたいな。笑






33歳頃までそんな感じでした。










同時に悩んだのが、
日によって自分の感覚が、
女子でいいや、となったり、
女子では嫌だ、となったりすることでした。







服装や言葉遣い、行動、態度のようなわかりやすいところは特に、
女子であることを許せて、
"女の子らしく"していたくなる日もあれば、



パッと見女子と思われないように、なるべく自分のいろんな部分を隠したくなったりする日もありました。







この感覚には日々本当に振り回されて、
高校生ぐらいの頃は、
嫌だとなったらブラもつけずに登校していました。





体育があったりすると、やば!と思うくせに、
もう途中からは本当に嫌になったので、
ほぼしなくなりました。







なんでこんなに毎日毎日、
違う自分みたいな感覚になって、
変わってしまうんだろうと思っていたけれど、





それはやっぱり、
自分がわからないというところに根っこがありました。









ジェンダーフルイドという言葉を、
聞いたことがありますか?








すごく簡単に言ってしまうと、
日によって、時によって、
ジェンダーが揺れ動くような感じのようですが、





自分の感じてきたことはこれなんだな、とわかった時に、
少し安心しました。








得体の知れない自分と向き合う時に、
そのままを自分として受け入れ、
認めてあげられればいちばん良いですが、




カテゴリーがあると知ることで初めて、
安心の一歩を踏み出すことのできる人は、
多いと思います。










わたしにとっては、
ノンバイナリー
ノンセクシャルという概念も、そうでした。







"欠陥のある自分"

から

"〇〇である自分"

に、まず一歩、昇格できた感覚でした。







今の自分はというと、
自分がどの位置、どのカテゴリーかと考えることはありません。






わたしというジャンル、カテゴリーがあるだけです。






だから、何かに当てはめようとしたり
何かと比べたりすることがなく、
気持ちは楽で、晴れ晴れとしています。






このわたしで、価値があると思えています。






こんなブログを書いてはいますが、
わたしはこうですと人に言うこともありません。
どう思われたって、大丈夫です。





でもそこには、まず安心の一歩である、
"カテゴリーがあった!良かった!自分だけじゃない!"
を通ってきたということがあります。







わたしにとっては、
そこがなければ今がなかったのです。






わたしは女子として生まれているので、
女子かどうかというところは特に意識することが多かったですが、
本当はなんでも良いんだとわかってきました。







自分が自分であれば良いし、
すべての存在がこの世界で多様性を表現することを許されているので、
みんな幸せであって良い。






自分もさらに、磨いていかなければなと、
思っているところです。