アメリカ東海岸の町セント・ローズにマイカ・ブラウンは住んでいる。

その日は母の虫の居所がこれまでになく悪かった。

それには理由があって、日頃折り合いの悪い父の帰宅がいつもの深夜どころか、朝になっても帰ってこなかったことだ。何かが割れる音でマイカは浅い眠りから目が覚めた。そっと階段を下りる間も床の上で割れる音が鳴り続け、母の「あの女のせいよ」と毒づく声がリビングに響き渡った。マイカはそっと忍び寄ると、歯止めのきかない衝動に襲われた母の行状をのぞき見、自分もお金を稼げる歳になったらきっとここへは戻ってこないだろう、と心の中で母を罵った。

突如起こったリビングの怒りの竜巻は気休めに家具を散乱させ、それから玄関の鍵を確かめた後、外しておいたチェーンを確実に掛けると、廊下の奥の突き当たりにある寝室までへと進み、寝室のドアをけたたましい派手な音を立てて閉めると玄関と同じように鍵を掛ける音が聴こえた。ジ・エンド。

しばらく寝室からは引き出しらしき音やクローゼットの音が聞こえていたが、音がしなくなるのを待ってマイカは冷蔵庫のドアを開けた。時計を見ると六時は過ぎている。スクールバスの時刻は八時十五分。二時間ぐらいはあっと言う間だ。まずは腹ごしらえだ。休みへの誘惑に囚われるが、今日この家にいることこそ耐えられない。

出て行くには、と猫のような注意深さで体はピンと張り詰めた。玄関の鍵を開けて出て行くことはしたくない。何にしろ今日この家を訪れる人が、それがたとえ帰宅した父であれ、玄関に鍵が掛かっていることこそが重要なのだ。

チェーンがかかっているなら完璧だ。

それがこの家の閉鎖的な、怒りから憎しみを育てようとしている現実に対する意思表示となれば、この現実を変える何かが働き出すかもしれない。もっとも、終局的結末を招くかもしれないが、変わろうとしない日常にはうんざりだ。

マイカにとってはひとつの賭けのようなものだった。

がしかし、賭けとは大体が負けることに決まっている。それも確率的にだ。

まさにそれを証明したのが、スクールバスに乗りそこねるというミスだった。逃亡の計画は良かったのだ。音を立てないように用心に用心を重ね二階の屋根伝いに下りると、道路を横切って一目散に走ったものの、その先をバスは無慈悲にも遠ざかっていった。バスの窓から振り返る者もいない。日頃の行いが悪いのか、仲間の間の、そしてまた、近隣における自分の存在というものを再確認したような気分にマイカは襲われた。口惜しさを噛み、憤りを飲み込み、このまま家に戻ってひと暴れしようかとも考えたが、一刻も早くここから去るべきに思えた。自分から事件を起こすなんてまっぴらだ。マイカは道路をさらに横切って浜へと下りていった。

さて、どこへ行こう?

浜に人影はなかった。

人は心のどこかで愚かにもアクシデントを求めるようなときがある。得てしてそんな時に限って平和そのもので何も起こらない。マイカは黙々と行くべきか行かざるべきかを迷い、行くなら遅刻の理由を劇に置き換える方法を模索して歩いていた。静かな浜辺、時に蟹が波を浴びながら走る砂地をゆっくりと。

すると救いがたい現実を割って忍び寄る、非現実とも言うべきひとつの僥倖、朝日を浴びて雪のように映える白い塊がマイカの目を釘付けにした。

行く手で待っていたのは浜に打ち上げられた奇妙な物体。

あれは死体?

打ち上げられた物体は人形のものである。とすれば溺死した人間かマネキンに違いなく。頭から両手両足まで見事についたままであることからマイカの直観は死体と告げていた。もし死体だとしたらこれ以上センセーショナルなことはない。

『マイカ・ブラウン浜で死体を発見』

文字がマイカの頭で踊った。

浜に打ち上げられた水死体なんて近年まれなことだ。急いで駆け寄ると、うつ伏せの死体は上下がお揃いの白い服で、白いシャツに白いズボン姿からなんとなく病院を思い浮かべた。肩までの髪は、濡れた毛皮のような滑らかさで白い顔にかかり、濡れた服の上からは女性特有の曲線を読むことができた。

こんなにもいい天気の朝に、これはどういう悲劇なんだ。

マイカの頭の中でひらめいたのは、まさに非現実へと突き落とされた主人公の少年の物語そのものだった。

この女性は家庭を顧みない父親の愛人であり、隣町で、それとも沖に漕ぎ出したボートの上で、いわゆる愛憎のもつれで殺めてしまった結果なのだが、それだけでは終わらない。ポーの「黒猫」のような暗示を秘めて死体は何故か母の住むこの町の浜に打ち上げられてしまうのである。何知らぬ顔で父は帰ってくるが、死体を発見してしまうのは皮肉にも彼の息子なのだ。

なんという悲劇!

マイカは周りに誰もいないことを確認すると大きく息を吐いた。さて警察に届ける前に、この女性が父の愛人だとしてどんな女なのだろう?

頭に浮かんだ物語の幻影を探るように、横たわる死体の顔を覗き込もうとしたその時だった。うめき声とともに死体がびくりと動き出したのである。

 

 

 

  …つづく