故郷の山並みは冬枯れの景色を空に映え、この日の空はインディアンサマーの陽りに満ち、山の端には小さな雲がひとつ浮かんでいた。今年は春が早いのか梅はすでに五分咲きである。そして一台のバスから静河と未知、そして浩市の妹の由香里がバス停に降り立った。
「静河さん待っていましたよ。未知さんも大変でしたわね。あら、そちらは…」
小学校前のバス停で待っていたのは欄美涼だった。
「美涼さん。こちらは君原浩市の妹さんです」
「君原由香里です」
「はじめまして。欄美涼といいます。あなたには何の影もついてませんね」
そう言った後、欄さんは困ったようにこう続けた。
「いえね。関係者は皆さん背後に影を背負っていましたから、勝手に思ってしましました。ごめんなさいね」
「その影って女性ですか?」
「あら静河さん。どうしてそう思われるの?」
静河は君原真由から聞いた話をゆっくりとかみ砕きながらくり返した。
「そうでしたか。でも違いますよ。由香里さんにも未知さんにも何も見えません。しかしね。静河さんにはアミル堂で会った時は見えませんでしたが、今は見えます。おばあ様ですね。正座しながら守っておられますよ。もう一つ大きな影があります。害を成すものではなく、何かを尋ねたがっているようですね」
「それは何です」
「分かりません。私までもくくられてしまいそうです」
「欄さんが?…どういうことでしょう。人間ではないのですか?」
欄さんは沈黙した後「分かったことを教えていただけますか?」と妖しい目を三人に向けた。
何か分かったな、欄さん。
静河はこれまで何度この目に出会ったことか。壁を突破しそうになったとき欄はいつもこういう妖しく別なものを見ているような目をする。
一体何に気づいたのだろう?
自分には気づかない何に気づいたのだろう?
由香里の話によると兄が小学生の頃、成生西小で事件があったと言う。兄が寝るのを怖り白州さんのお祖母ちゃんに相談したことがあったらしい。
静河は知らなかった。しかし静河は自分もまた祖母によって何か施されたのではないかと思えたのだった。そうでもしなければ、これほど記憶が曖昧になったりしないし、夢で何か言いたげにするはずもない。
「静河さん。あなたもくくる方ですか?」
突如欄さんが静河に訊いた。静河は驚いたように欄さんを見返すと、あの妖しい目が静河を通してその背後を見ていた。
不意に頭蓋骨の蓋が開いた。冷たい大気が入って来ると、足の筋肉がぎしぎしと熱をため、背筋を戦慄が駆け上った。
変だぞ。変な感じだ。
脳裏に暗い帳が下りてきた。これは夜だ。そして夢が始まる。
「きみはぼくだよ」と浩市が言った。
夢は再び続いて、フィルムのように過ぎて行くと、祖母・が・出て・きた…
・・・・・
・『助けて。助けてばぁちゃん』
『静河。ばぁちゃんはここにいるよ。
戻っておいで。ここだよ。
声のする方へばぁちゃんはいるよ』
『ばぁちゃん。ばぁちゃん。
保兄ちゃん血だらけだよ。血だらけで歩いているよ』
『心配いらないよ、英介。
本当の血であるものかね。保は何処へ向っている。
見えるかい静河』
『うん。保兄ちゃんお寺に向っているみたい』
『何処の寺かわかるかい。英介』
『豆腐屋さん、曲がったとこだよ』
『祥龍寺かい』
『わかんないよ、おばあちゃん。
左に大きな石が立っている。
石に文字が彫ってある。
山っていう字しか読めないよ』
『いいかい、静河。
保は帰ったんだよ。お家に帰ったの』
『お寺がお家なの』
『保のご先祖様が待っていたんだよ。
道草しないで帰ったんだねえ。
静河も帰っておいで。祖母ちゃんのところへ帰っておいで』
『ばあちゃん。
どうしてぼくはこんなところにいるの。
これは夢?空を飛んでるよ』
『そうだよ。夢だよ。
ちっとも怖くないんだよ。
自分を思い出してごらん。
ほら、心臓の音が聞こえるだろう。
ドックン。ドックン。鳴っているだろう。
そこへ帰るんだよ。わかったかい。
わかったかい。静河』
・・・・・
どうしたの。どうかしたの従兄さん。
未知の声が耳裏で聴こえる。
返事をしなくちゃ…でも、これも夢?
「ト・ホ・カミ・エミ・タメ…」
欄美涼さんの声が聴こえる。欄さんの唱える五大天津祓だ。五元の神の気が五感を通して入りこんでくる。静河は九字を切って唱えると欄をふり返った。
「ああ…欄さん…」
「おばあ様はこちら側の人だったのですね。民間療法とでも言いましょうか、子供たちの成長のために施しておかれた封印が外れましたね。どうです。つかえがなくなったでしょう」
「たとえは悪いのですが便秘が解消されたようです」
「便秘!便秘だったの?」
「例えだよ。たとえ。別に本当に便秘という訳じゃない。心というか気分にずっと晴れない何かがあった」
「じゃあ今は本来の静河ということね。で、何か分かった?」
「それよりも祖母が参ってた浄福寺にいってみよう。孝明たちと約束したからな」
静河は先導するように歩き出した。浄福寺は廃校になった小学校の東南に位置しているという。校門の脇に石鳥居が見えてきた。
未知などは小学校の脇にお寺と嫌なそぶりを見せた。
「浄福寺の裏、学校の校庭に面して墓地があるんだよ」
静河はそれがどうしたというような表情をすると、未知はこう続けた。
「ええっ校舎から墓地が見えるの。その前で運動会とかするの。ちょっとイヤかも」
「なんで。いい学校だよ。本当なら僕も通いたかったよ」
静河がそう言った途端に未知は信じられないという顔をした。
「えーっ。それこそなんで!」
欄美涼は二人を交互に見ている。
「運動場と墓地。生と死は表裏一体ということを学ぶ見本だよ」
「信じらんない」
欄美涼は低い声だったが笑い声を上げた。
「ふふ。バランスがいいわね。二人とも」
バランス?どういう意味?
そんなことを話していると、石鳥居を過ぎたとこから声を掛けられた。見ると孝明と昭夫らしき人物がいる。
「白州家のボンか?」と言う。
「ボンは止めてくれよ」
「はっは、そうだそうだ。静河ちゃんだよ」
「調子いいな昭夫は。静河様だろう。頼みの綱にしてたじゃないか…」
「あれっ、もしかして君原んとこの由香里ちゃん」
「はい。由香里です」
「懐かしいー。ところで浩市はどうなの?」
「ひと月過ぎましたが、まだ目を覚ます様子はありません」
「でも生きはいるんでしょう?」
「何だよその訊き方は、不躾だよ」
「大丈夫です。兄は気の強い人です。真由が話しかけると脳波も活発になるようですし、ホントみなさんに心配をかけてごめんなさい」
「いいよいいよ。必ず目覚めるよ。なあ静河」
「そういえば静河、電話では意味ありげな事を言っていたな。原因とか理由、肝心なことは分かったのか?」
静河はため息をひとつつくと「それを確かめに来たつもりなんだが…」と言葉少なく言い放った。
…つづく