〇星亮一 幕末期の会津藩に関する著作多数。

 

●側近の中山忠能の「中山忠能日記」に「何たるご災難にあらせられ候事やと、非涙のほかなく、前後を忘れ申し候」とあり。容保も「暗涙千行、満腔の遺憾はどこにも訴えられところがない」(京都守護職始末)と泣き崩れた。これで公武一和は大頓挫した。容保は頼るべきところを失い京都守護職の意味はこれですべて失われた。

 

〇中山忠能1809-1888 侯爵

 

●会津藩主従は呆然自失、言葉を失いこれまでの努力が水泡に帰し断腸の思いだった。容保は病に倒れ十日あまり臥った。もう何をする気力も失われた。宮廷内部に毒殺説が流れた。それはかなり信ぴょう性に富むものであった。

 

●この時期岩倉具視らの討幕運動は苛烈を極めていた。公武合体派の暗殺の噂を流し、岩倉に同調する大原重徳、中御門経之ら公家二十二人が参内し孝明天皇に「王政復古策」を建議した。その内容は諸侯会議の開催や長州に下った公家たちの赦免,征長軍の解兵、さらには朝廷の改革など多岐にわたった。

〇中御門経之 1809-1888 侯爵

 

●天皇は激怒し「徒党を組んで濫訴するとは、その僭上の罪を問わねばならぬ」と閉門や差し控えに処した。公武合体に加担する孝明天皇は王政復古派の大きな壁になっていた会津藩にとってはこれほどの後ろ盾はなかった。

 

●天皇の毒殺説は今日なお結論は出ていないが、歴史家石井孝氏は典医の一人伊良子光順の日記をもとに「石見銀山」による毒殺説をとり、下手人は女官に出ていた岩倉具視の姪の疑いが濃いと主張した。歴史家原口清氏は病死説をとり、二人は平成二年から三年にかけて「歴史学研究月報」で激しい論争を繰り広げた。藤田覚氏の「幕末の天皇」にこのいきさつが記述されている。

 

〇石井孝1909-1996 日本史家

〇原口清1922-2016 歴史学者 

〇藤田覚1946-   日本近世史学者

 

〇昭和30年代の小西四郎さんの病死説は定説ではなく、それから約40年後にも毒殺説の論争があったということです。状況証拠は毒殺が有力ですが、それを実証する史料が薄いということでしょう。新史料の発見を待つところです。