マントラや観想などのデコレーションが多ければ多いほど、本来のサマディから離れてゆきます。彼は同著でさらに「言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。」と述べています。


30年位前、チベット密教の奥義書「マハムドラーの詩」を読んだ時、正法眼蔵と同じことが書かれていてとても驚きました。

 

「チベットの偉大なヨギー ミラレパ」(おおえまさのり訳)に掲載されていますが、「マントラ(真言)やパーラミーター(至彼岸の菩薩行)の行、スートラ(経典)や訓戒の示すところ、宗門や経典の教え そは自性の真理の実現をもたらすことなし」。


私も観想を多用する真言密教の出身なので実感していますが、入我我入観などでいくら仏と一体になったと思い込んでも、クリシュナムルティの言う自己催眠のような気がしてなりませんでした。

 

「天台小止観」や「摩訶止観」、そしてチベット密教の大賢ツォンカパの「菩提道次第論」を見ても、止観が必須だと説かれています。

 

この止観とは、まさにヨーガスートラのカリキュラムそのものです。

つまり止とは、「心の作用の止滅」であり、観とは「純粋観照」に他なりません。

禅でも全く同じスタンスを採用しています。

ツォンカパも「先に止住を達成してから、それに依って勝観を修習する」と書いています。

 

ですから止観は順序が決められており、「止(シャマタ)なくして、観(ヴィバシャナ)はない」ということなのです。