文京区大塚 護国寺 多宝塔


 お金というものは貯めるに難しく、使うのは簡単である。何十年もかけて貯めたお金を一瞬にして失ってしまう。こんなことは、現在も過去もざらにある。お金の扱いには慎重にならなければいけない。
 それでも使ってしまうにしろ、お金が貯まる時代というものはいいものだ。時代が悪いと誰もがお金を貯めるというわけにもいかない。
 井原西鶴が活躍した元禄時代というのは、実はたいへん華やかな時代であった。そのときの将軍は徳川綱吉で、綱吉というとすぐに「生類憐みの令」が挙げられ、綱吉は暗愚の将軍などといわれるが、その実、綱吉は経済を活発化し国を豊かにした。一面から見れば、綱吉は名君であった。
 元禄時代は、大坂夏の陣で徳川家が事実上天下の覇者になって以降の高度経済成長の終着点にあたり、バブルの様相を呈していた。日本の中心で将軍のお膝元の江戸はもちろん、商人の町大坂も繁栄を謳歌していた。
 そのような状況の中、多くの金持ちたちが輩出しては消えていった。西鶴はそれら金持ちの姿をつぶさに観察し、この世でうまく生きていくための道理のようなものを考えていくのである。
 さしずめ「日本永代蔵」は西鶴の考え出した道理の集大成であろう。この本の中で、西鶴は繰り返し破綻していく金持ちのことを書く。なぜ、破綻した金持ちのことを書くかといえば、破綻するにはそれなりの道理があるからだ。成功に法則はないが、失敗に法則はあるのである。

 「日本永代蔵 巻六 銀の生る木は門口の柊」は、道理に則った没落譚である。ただ、この話が一風変わっているのは、二代目で没落するのは従来と同じであるが、二代目が放蕩をして家を潰したわけではない。見栄えのためにお金を失うのである。
 この話の主題というよりも「日本永代蔵」全体の主題ともいうべきものが、この話の冒頭の三行に詰まっている。すなわち、
「唐土(もろこし)の周の文王の動物の飼育園は七十里四方あるというが、その内の千草万木の眺めも、一間四方の空き地に植えた一本の柊を見るのも、我が屋敷と思えば、楽しむ心は同じである」
 というものである。要は、気は心ということである。見栄えなど関係ないのである。
 越前(今の福井県)の国の敦賀という大湊に年越屋の何某(なにがし)という商人がいて、小資本ではあったが、味噌・醤油を作り、次第に家が栄えていった。転機は、お盆の精霊流しに使われる蓮の葉を拾い集めて、それで味噌を包んで保存したことである。それまで、味噌は小桶・俵をこしらえてそれに入れていたのであるが、その費用は莫大であった。
 分限になった何某は贅沢は一切せず、これ倹約に勤めた。庭に一本の柊を植え、それが成長して大木となり、家の目印となった。資産は一万三千両までなり、息子に嫁をもらう時期になった。
 嫁を貰うことが決まり、仲人と何某の内儀が相談して、世間に笑われないようにたいへん贅沢極まりない結納を相手に送った。酒樽などは二十五人の男が担いで運んだ。内儀は亭主の何某には角樽一つと塩鯛一匹と丁銀一枚を送ったと嘘を言った。
 嫁を迎えて、息子は店を改築して立派にした。初めは親の何某は反対したが、息子は押し切った。ところが、それから客がぱったり来なくなった。店構えが味噌屋にしては立派すぎて、客が遠慮したのである。
 息子は他の商売に手を出すが、すべて裏目に出て、最後はお金がなくなり、店を売ることになった。だが、息子は負け惜しみで、
「店を改築したから三十五貫目(約六百両)で売れるのだ」
と嘯いた。

 身の程を知らないととんでもないことになるというたいへん貴重な話である。

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 写真は、文京区大塚にある護国寺に建っている多宝塔です。多宝塔は、滋賀県にある石山寺の多宝塔がモデルといわれています。
 護国寺は、天和元年(1681年)、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の実母桂昌院の願いをうけ、高崎の大聖護国寺住持である亮賢に高田薬園の地を与え、桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じ、開山しました。

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