庭前に咲いた都忘れ

 

<私訳>

 諸国の神々、毎年十月、出雲大社にお集まりになって、民安全の相談遊ばした。国々へ遣わす年徳の神を決めて、正月の準備などをお急ぎになるときに、京・江戸・大坂の三が津への年神は、中でも徳の備わっているのを選び出し、奈良・堺にも老攻の神たちを送る。
 また、長崎・大津・伏見にも、それぞれの場所にふさわしい神の役目を決め、そして、一国の城下町、あるいは港町・山間の都市・繁盛の村々を見定めて割り当てをし、その他、都から遥か遠くの島々の粗末な家までも、年徳の神をお遣わしになるので、餅をついて門松を立てる家に正月の来ないということはない。
 しかし、年徳の神は、上方は各自がそれぞれに望み、田舎の正月はお嫌いである。いずれにせよ、二つのうちどちらか一つを選ぶとすれば、すべてにおいて都は格別である。
 この世の月日の過ぎ去ってゆくことは流れる水のごとしである。ほどなく、波のように月日が幾重にも打ち寄せて、十二月の末になった。

 ところで、泉州の堺は、朝夕わが身の上を大事にして、胸算用に油断なく、あらゆる商売において控え目にする。表向きは格子作りのしもた屋にみせかけて、人目に目立たない家の内部は奥深く作り、一年間の収入を記載した帳簿の金額を計算して、経費をまかなっている。
 たとへば、女の子をもった場合は、疱瘡をしたあとの顔の形を見極め、人並みの顔をして現代風の女房になると思えば、早、三歳・五歳の頃より、毎年少しずつ嫁入り衣装をこしらえる。
 また、顔形のおもわしからぬ娘には、男はただでもらってくれないと考えて、持参金をつくるつもりで、金貸しの商売を家業の他にして、縁ずく時にそれほどたいへんにならないようにするなど、まことにいい覚悟の仕方である。
 このようなわけで、棟に棟、しだいに立続き、こけら葺の屋根の板も腐らないうちにさし替えたり、柱も腐らぬうちに石で根元を継ぎ足して、軒の銅の樋、数年心がけて、買い時を見すましてとり替えた。手織りの不断着も動作がゆったりしているので、すり切れることなく、人目には、しとやかに見えて、しかも経済的である。茶の湯の道具を代々伝えているので、年忘れの茶の湯の振る舞いをしても世間へは風流に見えて、さして経費のかかるものではない。このように堺は世渡りを賢くし馴れているところである。
 裕福な人さえこのような訳だから、まして、財産の少ない家はそろばんを枕に寝ている間も、財産が増えるか減るかの大晦日を忘れることもなく、踏台付の唐臼の赤米を紅葉の美しい秋の景色の秋とながめ、目の前の桜鯛は見たがる京の者に見せよと、毎夜、魚荷にして京に送り、客のない時は、江鮒(えぶな)も土臭いといって買わないところである。山ばかりの京では、真鰹を食い、海に近い堺では、磯でとれる小魚や蛤ですます。

 万事において、燈台もと暗しである。堺の大晦日の夜の様子を見ると、たいていは店構えのよい商人の家で、その一つに年徳の神の役目なので、案内をなしに正月をしに入ってみる。恵方棚は吊りながら、お灯明はあげないで、何となく物寂しく、気味の悪い家であるが、ここだと見込んで入ったので、他の家に行って、相宿をするのもおもしろくない。どのようにして正月を祝うのだろうと、しばらく様子を見たところ、出入り口の戸が鳴るたびに、女房はびくびくして、
「主人はまだ帰りません。何度も御足労をかけまして、すまないことです」
と、どの人にも同じいい訳をして、帰させた。
 ほどなく夜中も過ぎ、曙になると、掛取りたちがこの家に集まり、
「亭主はまだ帰らないのか、帰らないのか」
と、おそろしい声をたてるところへ、丁稚が息せき切って、
「旦那様は助松へ行く途中で、大男が四五人やって来て、松林の中へ引きずり込んでしまいました。私は、
『命が惜しくは』
という大男の声を聞き捨てにして、逃げて帰りました」
という。お内儀(かみ)は驚き、
「おのれ、主人が殺されるのに逃げて帰るとはあさましいものじゃ」
と泣き出せば、掛取りたちは一人ひとり出て行く。夜はしらじらと明けていく。

 この女房、掛取りが帰ったあとで、それほど嘆く様子もない。そのときに、丁稚は懐より袋を投げ出し、
「田舎も不景気になりまして、ようやくと銀三十五匁、銭六百取ってまいりました」
という。まことに、大晦日に一時のがれをする家に使われると、奉公人までも詐欺師同然になるものだ。
 亭主は納戸の隅に隠れていて、因果物語の書物を繰り返し繰り返し読み続けて、美濃の国不破の宿で、貧乏な浪人が正月を迎えることができずに妻子を殺した場面を読んでことに哀れで悲しく、
「このままでもいずれ死ぬのに、わざわざ殺すこともなかろうに」
と身につまされ、人知れず泣いていたが、
「掛取りはみんなあきらめて帰りました」
という声に、少し心が落ち着いて、体を震わせて納戸から出て来て、
「さてさて、今日一日のおかげで年をとった」
といって後悔しても仕方のないことである。よその家では、雑煮を食べて祝う時分に、米を買い薪を調え、元日でも普段通りのめしを炊いて、ようやく二日の朝、雑煮を食べて祝い、仏様にも神様にもお供えをあげ、
「この家の吉例として、もうすでに十年余りも元日を二日に祝います。神の折敷が古くても堪忍してください」
といったが、その日は夕飯なしにすました。

 神の目にも、これほどの貧家とは知らず、三日になるのを待ちわび、四日になるとこの家を立ち出で、今宮の恵比寿殿を尋ねて行って、
「さてもさても見かけによらぬ。貧しい家で正月を過ごした」
と、つらかった話をなさったところ、
「あなたも、毎年いろいろな家で年を越して酒食をする年徳の神らしくもない事でござる。人の家の見立てをいうなら、召合(めしあわ)せの戸が汚れていたり、女房が下女の機嫌を取り、そして畳の縁の切れた家では、正月を迎えないものでござる。広い堺中で、そのような貧しい家は四五人しかないのに、そこへ行くとはよくよく不運な神様でござる。私は世の中の商人の志の酒と掛鯛で正月をした。あなたも口直しをして、出雲の国へ帰ってください」
と、ご馳走をして、引き留められた。この神の話を、十日戎の朝早く、参詣した人たちは内陣で用を聞いて、帰って行った。

 神にてさえ、このように貧富の差があるのだから、まして、人間の身では、この世は定め難きうき世であるから、先祖代々から受け継いだ家業を油断なく励んで、一年に一度の年神に不自由をさせないように稼がなければならない。

 

庭前に咲いた山吹

 


<コメント>

 西鶴のすごいところは、神様も人間同様に扱う。運のいい神様もいれば不運な神様もいる。神様は嫉妬もするし愚痴もいう。
 毎年、出雲大社から正月の年徳の神を全国に派遣する。ある神様が堺に派遣され、神様は内心喜んだ。堺の商人は堅実で、羽手ではないが内実は裕福である。
 「これはいい正月を迎えることができる」と期待したが、商人の家に行ってみたら、豈(あに)はからんや、その家はとんでもない家であった。借金で年を越せず、掛取りを追い返すために、丁稚と女房がうその芝居をする。亭主は奥の納戸にかくれて、哀しい小説を読んでいる。
 神様は期待したような酒食に与(あず)かることもなく、恵比寿様を尋ねて大いに愚痴をいう。
 この神様はたいへんな不運の持ち主のようであるが、人間社会はえてしてこんなものである。神様だけが特別ではないと、西鶴はいいたかったのか。

 

都電面影橋駅傍に建っている山吹の里の石碑

山吹の里の案内板

 

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 写真は、上から庭前に咲いた都忘れです。都忘れは、キク科シオン属です。名の由来は、承久の変で佐渡に流された順徳上皇が詠んだ歌に因んでいます。

”いかにして契りおきけむ白菊を都忘れと名づくるも憂し”
 佐渡に伝わる伝説によれば、順徳上皇は小さな菊を御所の周辺に植え、愛でていました。

 写真中は、庭前に咲いた山吹です。以前に尋ねた山吹の里をきっかけに育てています。毎年、さくらが咲くころに咲き、さくらが散るときに散ります。

 写真下は、都電面影橋駅傍に建っている山吹の里の石碑と案内板です。

”七重八重花は咲 けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき”

 

 

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