小説 逢いたくて~心花~[氷の男」の心を唯一動かした女-夫の誘いにお彩の心は激しく揺れて | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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小説 逢いたくて~心花(こころばな)~

  第14話 雪待ち月の祈り

 

☆ 心に花を咲かせるんだよ。たとえ小さくても良いから、自分だけの花を心に咲かせるんだ。-それが、私が13歳の時、亡くなった、おっかさんの口癖だった。 ☆

お彩(さい)は16才。江戸の町外れ、通称、〝甚平店〟で父の伊八と
二人暮らし。母のお絹は屋台を引いて歩く夜泣き蕎麦屋をやっていたが、
働き過ぎがたたって、若くして亡くなった。

実は、伊八はお彩の実父ではない。
お絹が既に亡くなった男に犯され、心ならずも身ごもった子どもだった。
当時、伊八とお絹は既に恋仲で、将来の約束も交わしていたのに、
お絹はさらわれ、人気のない寺に監禁された挙げ句、陵辱されたのだ。

いったんは身を引いたお絹を想う伊八の心は変わらず、二人は祝言を挙げて
夫婦となり、お彩が生まれた。

伊八は、江戸でも評判の腕の良い飾り職人である。
彼はお彩を実子として手塩にかけて育て上げた。それは母お絹が亡くなってからも
変わらない。そんな優しくて頼もしい父を、お彩は物心ついたときから、大好き
だった。

それが、いつから、父を〝男〟として意識するようになったのか。。。
ついには住み慣れた家を出て、一人暮らしを始めた。

そんなある日、お彩が働く一膳飯屋に見知らぬ男が現れる。
圧倒的な存在感を持つ、凄艶なほどの美貌を持つ男。なのに、
その瞳には孤独の色を滲ませている。
いつも一人で黙々と酒を飲む男を、お彩はいつか気にするようになっていた。
新しい恋の予感。
それが、やがて、お彩自身の生涯を決定する運命の出逢いだとは、お彩はまだ
知らない。
更に、その謎の男が母お絹と浅からぬ因縁があることも-。
お彩に一途に想いを寄せる同じ長屋の伊勢次、この名も知れぬ男、これらの
二人の男こそが後々、お彩の生涯に深く関わってくるのだった。
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「流石はお内儀さん、お察しがお早いようで」
 泰助が陰にこもった笑いを洩らした。
「旦那さまは五日は待つとおっしゃっています。ですが、それ以上は一日たりとも待てないと。もし、お内儀さんがあくまでもこの要求を突っぱねるおつもりならば、こちらにも覚悟がある、申し訳ないが、ここの土地はすぐにもお返し頂くと申されておいでです。どうか、その辺りをよおくご勘考あそばされて、賢明なご判断をなさいますように。何分、氷とまで噂されるほどのやり手のお方にこれほどに見込まれたんだ、私が女なら、歓んで玉の輿に乗っかりますがね」
 最後のひと言は到底、主筋のご新造に対するものとは思えない無礼なものだったがー、お彩は、泰助の言葉なぞもう耳に入ってはいなかった。
 自分とお美杷が京屋に戻らなければ、喜六郎はこの店を手放さなければならないー、ただそのことだけが烈しい衝撃となって、頭内で渦巻いていた。
 自分は今まで市兵衛を随分と甘く見ていたらしい。今、この瞬間こそ、市兵衛は「氷の京屋」と呼ばれるその本性を表したのだ。そして、お彩はこの冷酷無情な男にいまだに惚れている。まさに運命の皮肉としか言いようがない。欲しいものがあれば、どのような手段を使おうと手に入れる―、それは猟師が獲物を極限まで追い詰めるのにも似ていた。
 お彩は内心の動揺とは裏腹に、いきなり立ち上がると大声で叫んだ。
「とっとと帰って下さい。このまま居座って、うだうだとつまらないことを喋るつもりなら、塩を撒きますよ」
 その剣幕に気圧されたかのように、泰助は一瞬怯んだ様子を見せた。このような男は計算高く、上手く立ち回る術(すべ)は心得てはいるけれど、意外とここぞというときの度胸はないものだ。要するに、小心者ということである。もっとも、意気地がないからこそ、狐のようにずる賢いこざかしさを武器にして立ち回るのだろう。
 泰助は立ち上がると、お彩を軽蔑しきった眼で眺め下ろした。
「だから、所詮は裏店育ちの卑しい女だというんだ。前のお内儀さんとは大違いだ。旦那さまもこんなあばずれのどこがお気に召したのやら」
 毒づきながら這々の体で帰ってゆく。お彩は急いで板場に取って返し、小さな壺を持ってきた。壺からひとつまみの塩を掬うと、力一杯投げつけてやった。
 泰助は痩せぎすだが、身の丈はある方だ。その後ろ姿に向かって、思い切り塩をかけたものだから、たまらない。
 泰助はぎょっとしたような表情で振り返ると、脱兎のごとく慌てて逃げていった。
 泰助の姿が障子の向こうに消えたその瞬間、お彩の身体中から力が抜けた。たった今まで張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったようで、お彩は緩慢な動作で手近な樽を引き寄せて座った。
 と、近くから笑い声が聞こえた。
「いや、何ともはや、見事としか言いようがねえな。あの狐野郎、尻尾を巻いて逃げやがった。偉そうな口をきいていても、所詮は京屋という大店の威光を笠に着てるだけだな、ありゃア」
 喜六郎は愉快でたまらないといった顔で笑っている。喜六郎の眼にも、顎の尖った面長の泰助の顔は狐に見えたのだろうかと思うと、お彩も思わずおかしくなって、クスリと笑いを洩らした。
 喜六郎の笑い声に安五郎の笑いを含んだ声が被さった。
「なかなか鮮やかな手腕ですね。あの手の野郎はこちらが大人しく黙っていればいるほど、調子に乗るんですよ。私が相手をしていたら、とっくに堪忍袋の緒を切らせて、あんな男は追い出しちまってたでしょう」
 安五郎は笑いながら言った。
「それにしても、お彩ちゃんも強くなったな」
 喜六郎が独り言めいて呟く。その中には感に堪えたような響きが込められていた。お彩が五年間勤めた「花がすみ」を辞め、京屋に嫁いだのは二年近く前のことだ。そのわずか二年の間に、様々な出来事があったに相違ない。
 喜六郎の中で様々な想いが渦巻いていた。京屋でのお彩の立場がどのようなものであったのかは、先刻の手代頭とか名乗る無礼な男の態度だけで十分想像できる。以前のお彩なら、ああまで酷い台詞を投げつけられたら、涙ぐんでいただろう。それが塩を撒いてやると脅すどころか、実際に塩を撒いて追い返してやったのだから、喜六郎は愕いた。
 恐らくは、京屋で味わった哀しみや口惜しさ―、一連の出来事がお彩の心をより強靱にしたのだろうと推察できた。元々、弱音を吐いたりするような娘ではなかったけれど、以前、「花がすみ」にいた頃のお彩は、どこか脆さにも通ずる儚さがあった。何かあれば、よく泣き、伊勢次が「お彩ちゃんは泣き上戸だなァ」とよくからかい半分で言っていたのを憶えている。
 だが、市兵衛との別離を経て、お彩は変わった。変わったというよりは、成長したと言った方が良い。持ち前のしなやかな強さがよりいっそう際立つようになった。京屋でのあれこれから伊勢次の死。やっと伊勢次と添い、今度こそ本当の幸せを手に入れるかと思いきや、伊勢次を喪った―。そんなすべての出来事がお彩をけして風に倒されることのない強い花に変えたのかもしれない。
 だからこそ、喜六郎はお彩を幸せにしてやりたいと思う。市兵衛にしろ伊勢次にしろ、結句、お彩を幸せにしてやることはできなかった。だが、この広い世間にはお彩を幸福にしてやることのできる男がどこかにいるはずだ。次にめぐり逢う男とこそ、お彩が添い遂げられ、穏やかな幸せを得ることができるようにと願わずにはおれない。
 物想いに耽る喜六郎の視線がふと安五郎の前で止まった。
―そうだ、この男なら、もしかしたら期待に応えてくれるかもしれない。
 そんな希望が喜六郎の中に浮かんだ。それは闇に差し込むひとすじの光のように思えた。
「オウ、お美杷坊はまた眠っちまったみてえだな」
 喜六郎が言うと、安五郎が笑顔で応じた。
「普通なら、こんな修羅場では赤子は敏感に空気を感じ取って泣き出すものと相場が決まってますが、流石はおっかさん似の豪傑だ。将来(さき)が楽しみですね」
 お彩は肩をすくめた。
「何だか賞められてるのかどうかよく判りませんけど」
「そりゃあ、賞め言葉に決まってらあな、な、安っつぁん」
 喜六郎に促され、安五郎も頷いた。
「もちろんですよ、けなすだなんて」
「お彩ちゃん、ちょいと上に行って、お美杷坊を寝かしてやってきねえ。俺は安さんと話があるから、悪ィがちっと席を外してくれねえか」
「はい、判りました」
 お彩は頷くと、安五郎にも軽く頭を下げ、ゆっくりと階段を昇っていった。
 お彩の姿が消えるのを待って、喜六郎は安五郎に顎をしゃくった。
「まあ、座ってくれ」
「腰を痛めたと聞きましたが、もう大丈夫ですか」
 安五郎が訊ねると、喜六郎は苦笑した。
「俺も歳だな。何もたいしたことをしたわけでもねえのに、いきなりぎっくり腰になるなんて、ザマはねえや。マ、二、三日寝てれば、治るだろうよ」
「度胸がありますね。それに、きれいな女(ひと)だ」
 安五郎が感に堪えたような表情(かお)で言うと、喜六郎は破顔した。
「ああ、なかなかの別嬪だろう? それに、何より、気性の真っすぐな素直で良い子なんだ。おまけに働き者だぜ」
「まるで自分の娘を自慢しているようですよ」
 安五郎の揶揄するような口ぶりに、喜六郎は小さく肩をすくめて見せた。
「流石は安っさんだな。勘が怖ろしく良いところは昔から変わりねえや。実は、俺はあの娘(こ)にこの店の跡目を譲りてえと考えてるんだ」
 安五郎はこの台詞にはたいそう愕いたようだった。
「じゃあ、先に言いなすっていたあの養女にするとかいう話、あれは本気だったんですか。それはまた、たいそうなお気に入りようですね」
「俺にゃア、死んじまった女房との間に一人娘がいるにはいるが、とうに嫁に出しちまった。もとより、しがねえ一膳飯屋だから、俺一代で終わるのも構やしねえんだが、あの娘(こ)がここに勤めてもう五年以上になる。俺はその間ずっとその働きっぷりを見てきたが、あの娘には料理人としての才覚が自ずと備わってる。だから、一度は俺一代限りで閉めようと思っていた店をあの娘に託してみようと考えるようになったんだよ」
 喜六郎は少し押し黙った。途端に浮かぬ顔になり、声を低めた。
「あの娘にはいろいろと深え事情があってな」
 安五郎は喜六郎の言うように、勘の良い、飲み込みの早い質のようである。
「先刻の男ですか? 何か権高な嫌な奴でしたね。京屋とかいう店の手代頭だとか言ってましたが」
「実は、お彩ちゃんは、その京屋のご新造―、いや、元ご新造って言った方が良いかな。京から出てきてまなしのお前さんは知らねえのも無理はないが、京屋というのはこのお江戸でも一、二と呼び声の高い呉服太物問屋よ。その京屋の主市兵衛さんといやァ、これもまた、泣く子も黙るやり手の商人で“氷の京屋”と呼ばれるほどの凄腕だ。あの娘はその京屋の旦那の女房だったんだ」
「氷の京屋―」
 安五郎が呟いた。