私が命じられたのは国王暗殺―王様、私はあなたと出逢いたくはなかった 小説 闇に咲く花~王を愛した | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 闇に咲く花

~王を愛した美しき刺客~

―私が領議政に命じられたのは国王暗殺―

その日、翠月楼で天下を揺るがす怖ろしき密談が行われた。

〝暗闇に艶やかに咲き誇る花となり、その色香で国王を虜にし、意のままに操るのだ。そして生命を奪え〟

「国王殿下(チュサンチョナー)をしいし奉れとおっしゃるのか?」

果たして、王暗殺は成功するのか?

女官として近付いた美しい翠玉に、若き国王は次第に心奪われてゆく。

 

 

 その時、少年は漸く男の貌を間近に見ることができた。くっきりとした双眸は炯々とした光を放っており、笑うと眼尻に細かな皺が寄る。
 髪にも白いものがちらちほらと混じっており、予想外にこの男が歳を取っているのを知った。だが、膚には十分な張りが漲っており、若々しい。三十代後半といっても通るし、或いは五十をとっくに越えているといっても、おかしくはない。年齢不詳に見えることが余計にこの男を謎めいて見せている。
「折角の機会を逃すのは男としては真に残念だが、そなたには私の敵娼(あいかた)になる以外に、もっとして貰いたい重大な任務があるものでな」
 男は淡々とした口調で言い、懐からおもむろに一冊の本を取り出した。随分とうすっぺらい書物のようだ。
 その書物がふいに眼の前に飛んできて、少年は眼を見開いた。
「そなたの名は?」
「―翠(チユイ)玉(オク)」
 短く応えると、男が声を上げて笑う。
「何と、遊女風情が翠玉とは、何ともまた大層な名前であることよ。されど、それが真の名ではなかろう。親が付けた名は何というのだ」
「誠(ソン)恵(ヘ)」
 愛想も何もあったものではない。取りつく島もない返答であった。初めての客にこのような横柄な態度を取るなど、女将に知られれば、鞭で打たれるだけでは済まないだろう。が、誠恵には何故か、この男が自分の不遜な態度に腹を立てないだろうと判っていた。
 この男は少なくとも今の段階では自分を抱くつもりはなさそうだ。それよりも、自分に何かをして欲しいと期待しているらしい。
 その役目が終わるまで、この男が自分を罰したり傷つけたりすることはないだろうと漠然と予想できたのである。
「なるほど、実の名もなかなか良い。誠に恵まれるように―、そなたの両親は息子に誠実な男となるように願いを込めたのであろう」
 男は我が物顔に頷き、顎をしゃくった。
「その書物を開いてみなさい」
 誠恵は膝許に落ちた薄い本を拾い上げ、手に取った。
「構わぬ、そなた自身の眼で確かめるが良い」
 何げなくページを開いた誠恵は硬直した。
 薄っぺらな書物の最初に〝殺 孔(コン)賢明(ヒヨンミヨン)〟と墨の跡も鮮やかに書かれている。慌てて次のページをめくると、次には〝殺 光(グワン)宗(ジヨン)〟と同じように記されていた。
 が、面妖なことに、その次からは何も記されていない白紙が続き、結局、そこにあるのは二人だけの名前だった。
「これは」
 誠恵は唇をわななかせ、男を見つめた。
 眼前の男は不敵な笑みを浮かべている。
「これが何を意味するか、そなたにも薄々と察しくらいはつくはずだが」
 挑戦的な口調で唆すかのように言われ、誠恵は言葉を失った。
―この男は実に怖ろしいヤツだ!!
 もう一人の自分がしきりに警告していた。こんな男に近づいてはならない。この男はあまりにも危険すぎる、と。
「私には何のことやら判りかねます」
 誠恵が低い声で応えると、男が声を立てて笑った。自分の応えの一体何がそんなにも面白かったのか判らない。
 さも愉快そうに笑う男を、誠恵は醒めた眼で見つめていた。
「空惚けるな。他の者は易々と騙せても、この私はそう容易くは騙されぬぞ。そなたは、ひとめ見て、これが何なのか判らぬほどの愚か者ではない。だからこそ、私はそなたに白羽の矢を立てたのだ。大事を成し遂げるのに、女では心許ない。ゆえに、幼いと言っても良いほど年若く、穢れなき楚々とした可憐な少女(おとめ)の風情、その裏には怖ろしき魔性を秘めた少年を私はずっと探してきた。ここの女将から、その役には打ってつけの者がいると連絡を受けたのが、もう五年前になる」
 誠恵は息を呑んだ。
 彼が月華楼に売られてきたのは五年前、十歳の春だった。では、この男は女将を介して自分の存在をその頃から既に知っていたというのか!
「そうだ、恐らく、そなたの予想は当たっている。私は、そなたが成長する間、じっと待っていた。そなたが私の手先となり、我が使命を私になり代わって果たしてくれるその日を待ち侘びていたのだ」
「もし、私がお断りしたら?」
 この男の話を聞いてはならない。今すぐに立ち上がり、この場を立ち去るべきだと理性がしきりに訴えている。
 が、この危険極まる男には、どこかしら魅惑的な翳りがあった。対する者をひれ伏せさせ、己が命令に服従せざるを得なくさせる何かをこの男は持っている。しかし、この男の口から紡ぎ出される話を一度耳にしてしまえば、二度と引き返せなくなることは判っていた。修羅の橋を渡るなど、さらさらご免だ。
 たとえ身体を売る暮らしに甘んじても、ここで真面目に年季明けまで働けば、自由の身になれる。晴れて解放されたら、真っ先に故郷の村に戻り、今度こそ両親や弟妹たちと共に暮らしたい。それが、誠恵のたった一つの望みであり、希望であった。
 こんなところで、うかうかと正体の知れぬ男の企みに乗せられたりするものか。
 誠恵が立ち上がろうとしたまさにその時、憎らしいほど落ち着き払った声が響いた。
「無駄だぞ」
 愕いて男を見た誠恵を男は感情の窺えぬ眼で見据えた。
「たとえ私の話を聞かずとも、この本を見た時点で、既にそなたの生命は我が手の内にある。私がこれを見たそなたをこのまま生かしておくとでも思ったか? たといここから逃げ出したとしても、そなたは明日の朝には、物言わぬ骸となり果て街角に憐れな姿を晒していることだろう」
「何故、何故、そのような卑怯な真似をする?」
 誠恵が怒りを込めた眼でキッと見返すと、男はまた低い声で笑った。全く癪に障る男だ。
「私は死ぬわけにはゆかない」
 誠恵が呟くと、男が大きく頷いた。
「そのことは十分心得ている。そなたが死ねば、月に幾ばくかの仕送りも途絶え、田舎にいる家族は飢え死にせねばならない」
 誠恵が眼を瞠った。
「お前は一体、何者なんだ? どうして、私のことを何から何でも知っている?」
 男が声を低めた。
「まず、名乗る前に条件を提示しよう。そうすれば、そなたの心も少しは軽くなるはずだ。どうだ、私の許に来ぬか?」
 誠恵が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「何だ、偉そうな口を叩いといて、結局は、私の身体が目当てなのか? お前の屋敷に住んで、男妾になれとでも言うのか」
 しかし、誠恵にも判っていた。この男がそのような低俗な望みを口にするはずがない。この男はもっと空恐ろしい陰謀をその黒い腹の中でしっかりと育てている。
 男がフフと低く笑った。
「腹にもないことを言うな。先刻も申したであろう。この私と駆け引きするなど三十年早い」
 ひとしきり笑った後、男がふと笑いをおさめた。その表情が俄に引き締まる。
 傲岸な態度を露わにしてきた先刻までよりも、誠恵にはむしろ今の彼の方が怖かった。
「私の片腕となって働いてみる気はないか? 私の期待どおりに見事役目を果たせば、そなたの一生の安泰だけではなく、そなたの家族の面倒も見てやろう。そなたの大切な父や母、幼い兄弟がけして飢えることのないよう約束しよう」
 突如として差し出された予期せぬ言葉に、誠恵は固唾を呑んだ。それこそ、彼がずっと望んできた、たった一つの願いであった。父や母、弟妹の蒼白いやつれた貌、痩せ衰えた体軀が瞼にまざまざと甦る。
 誠恵には三人の弟妹がいる。五歳離れたすぐ下の弟の次に七歳と三歳になる妹がいた。いちばん下の妹は誠恵が女衒に売られて都に来てから生まれたため、まだ顔すら見たことがない。
 誠恵が村を出る時、弟は五歳、妹は二歳だった。弟は村の出口まで見送りに来て、泣きながら誠恵に手を振っていた―。子どもらしい福々とした様子はどこにもなく、手脚は枯れ木のように痩せ細り、いつも空きっ腹を抱えて、お腹が空いたと泣いてばかりいる弟や妹。満足に乳も出ない母は乳が欲しいと訴えて泣き喚く妹を抱え、辛そうに眺めているしかなかった。
 人の好いのだけが取り柄の父親は生まれながらの怠け者で、少しまとまった金が入ると、すぐに酒代に変えてしまい、家にはろくに金があったことがなかった。母と誠恵の二人が細々と田畑を耕し、夜には草鞋を編んだ。そうしてやっと得た金を、父は酒に代える。
 母親が思いあまって金を父の判らない場所に隠すと、怒って暴れ、母を撲る蹴るの乱暴を働くのだ。酒が切れて苛立つ父親に足蹴にされる母を見て、彼は幾度、手斧で父の頭を殴りつけてやりたい衝動と闘わねばならなかっただろう。
 酔った父は、素面のときとは別人のように凶暴になる。また、酒が切れて中毒症状が出たときも同様だった。酒が入ると父は無性に女を抱きたくなるらしく、夜半、ひと間しかない狭い家の中で酔った父が母を組み敷いているのを何度も見た。獣のように酒臭い息を撒き散らしながら荒々しく振る舞う父の姿は、幼い誠恵に底知れぬ恐怖と嫌悪を与えた。誠恵は薄い粗末な布団に潜り込み、震えながら眼を背けていた。
 誠恵にしろ、他の弟妹たちにしろ、父がそういった衝動に駆られて母を手籠めも同然に抱き、生まれたのだ。
 村の若い娘や未亡人の閨に忍び込んで、その家人につまみ出されたことも一度や二度ではない。誠恵が八歳のときには、嫁入りが決まっていた十七の娘と深間になり、許婚者の男に袋叩きにされたことさえあった。
 瀕死の怪我で喘ぐ父を、母は涙を流して甲斐甲斐しく看病していた。
―そんなろくでなしの親父なんか、いっそくたばっちまえば良い。
 傍らで吐き捨てた誠恵の頬を母は平手で打った。
―何てこと言うだい。
 母は、そう言って、さめざめと涙を流した。