「さようなら原発10万人集会」で、愛知から参加されたJさんから頂いた本は「忘れない!明日へ共に」だ。その中に福島県の保育士と保育所保護者の文章があり、両名とも原発事故後医師などを招いて学習会をした、そこで「理性的に放射能を怖れる」ことの重要性を認識したという。この問題を考えてみる。
「理性的に放射能を怖れる」とか「正しく放射能を怖れる」というフレーズはしばしば言われるが、これは実は大変トリッキーな言い回しで、注意しないと「この線量なら大丈夫。私は理性的」と思い込みやすい。
第一に低線量被ばくについてはしきい値(閾値いきち)がないと考えるのが共通理解である。しきい値があるものなら「しきい値より小さい値は怖れない。私って理性的」と考えることは可能であるが。
第二に、放射線防護基準はそもそも「安全値」ではなく政策値としてのがまん値と言うべきものである。放射線を避けるメリットと放射線を避けることに伴う影響を総合的に考えて結論を出す。個人レベルでいうならレントゲン写真を受ける際は「レントゲン写真程度の放射線なら安全だから、健康上のリスクがないから、受ける」のではない。「被ばくのリスクはあるがレントゲン写真を撮ることによる治療上のメリットが大きいなら被ばくをがまんしようか」という判断なのだ。
もし仮にレントゲン写真を撮るのが趣味という人がいたとして(笑)、「すんません~、レントゲン写真撮るのが趣味なんですけど、撮らせてもらえません?」と声かけられたら誰でも断るでしょ? それは自分にメリットのない被ばくを怖れるからであり、これは感情的に怖れている訳ではないのだ。
第三に、低線量被ばくの人体への影響は分かっていることもあるが分かっていないこともある。そもそも分かっていないことを「理性的に怖れる」などということが可能なのか?
放射線のリスクとそれを避けることに伴う影響とは理性的に比較衡量する必要がある。しかしそれは総合判断における理性の問題であり、その問題と放射線そのものの被ばくリスクをどう考えるかを混同してはならない。
めぐは編集部気付で筆者に手紙を送ろうかとも思ったがやめた。代わりに編集部に電話をし、福島の二名の執筆者は学習会を開いたという自負がおありだろうが、おそらくどの講師も日本国に現在存在している妊婦の職業被ばく限度妊娠中1mSvには言及されていなかかっただろう、国は自国の妊婦の職業被ばく限度を積極的にアナウンスしない、という事実をお伝えした。