映画評『ホーリー・モーターズ』★★★★★ | 80代。マダムクニコの人生ブラボー!

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コピーライター歴30年以上。
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70代で、仕事を娘に譲り、今は
のんびり余生を楽しんでいます。
日記のブログは初めてですが、映画や旅、グルメ、俳句、芸術、読書など、自分史の積もりでいろいろ書いていきます。

映画はモーション(動作)がエモーション(感動)を作ってきた」と語るレオス・カラックスが、13年ぶりに怪作を撮った。タイトルバックから随所に映画へのオマージュがちりばめられている。


 のっけから、世界最初の映画といわれるリュミエール兄弟のシネマトグラフィの上映以前に、生理学者&写真家のマレーが撮った連続写真(動く少年)が提示される。
カラックスは、そこに原初的な「行為の美しさ」を見出していた。


 誰かの人生の一コマを演じることを生業とする主人公オスカーが、ボスに「君が仕事を続ける原動力は?」と問われて返す言葉が「行為の美しさ」である。
前述のように、監督は「映画に於いては、人間や動物の動きこそが重要であり、それは美しくなければならない」と言っている。オスカーはカラックスの分身なのだ。


「行為の美しさ」とは、日々ひたすら死に向かって疾走する人間の
刻々と過ぎ去る生の一瞬の輝きである。加えて、その瞬間をきちんと捉えて表現できるのは、アナログ撮影システムである、という意味も込められている。

オスカーは、「役者」という職業を持つ「生身」の人間である。
 彼が毎日乗る白いストレッチ・リムジンは、「壊れゆく映画システム」と「霊柩車」、2つの意味を持つメタファーである。


オスカーは、1日に9つの役のアポをとり、11のエピソードを演じる。役と役とは分断されてはいるが、無意識のうちに前の役を引きずっており、切り替えにはかなりのエネルギーを必要とする。さらに身体的なきつさも加わって疲労が累積していく・・・。


生身のオスカーも、自分が自分として生きることに疲れており、長い人生を歩むには、常に新たな自分を創出する必要がある。そこで、上書きしてはころころと変容するのである。


モノクロ映画、チャップリン、コクトー、ゴダール、自身の作品等々からのおびただしい引用のエピソードの殆どが、運動の静止、収斂、死といった、アクションとは正反対のイメージで終結する。
 これらは、もはやアナログ時代のアクション(行為)やモーター(キャメラ)を必要としない、無機質なデジタル時代に突入した映画界に絶望したカラックスのしがない抵抗のオマージュである。


 そうは言いつつも、彼は新たな生きる原動力を模索しなければならない。
 「死と再生」 が本作のテーマなのだ。



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ラストのエピソードで、オスカーは、チンパンジーが待つ団地のホームへ帰宅するサラリーマンを演じる。人間と動物の境界を越えた庶民、というイメージは、斬新な世界の夜明けを想起させる。

カラックスは、本作でもデジタル機器を駆使している。彼にとって最新のテクノロジーを活用することは必然である。
 本作には、そうしたものに取り込まれてしまうことへの危惧を抱きつつ、新たな挑戦をしなければならないカラックスの、映画愛の深さと映画界に対する決意表明が感じられる。(★5つで満点)