薩摩わがまま親父の「ちょっと気になる話」

薩摩わがまま親父の「ちょっと気になる話」

「わがまま親父」が 「ちょっと気になる話」について、「バナナの叩き売りの笑い」をベースに 熱く・鋭く語ります

サアサア門司港名物      バナナの叩き売り

御用とお急ぎでない方は    ゆっくりと見ていらっしゃい、

聞いてお帰り荷物にゃならぬ  バナナ屋自慢のバナナ節


おもしろ、おかしく節つけて   故郷の土産に買わすのが

ご存じ門司港名物        バナナの叩き売りだあ


サアサア南国おやじのお店   まもなく開店です。


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盲断②

ある盲人が一人旅をして宿に泊まり、翌日は夜明け前の出立となりました。

身支度をして出発しようとしておりますと、宿の主人が提灯に火をつけて

「まだ外は真っ暗です、夜明けまでにはまだずいぶんと時間があります。これを持ってらっしゃい。いらなくなったら、捨てて下さってもかまいませんから」と差し出しました。

 
 

 

「ご冗談でしょう、盲人が提灯を持ったとて何になりますか」

「いえいえ、貴方様には必要ないかもしれませぬが、この暗がりの中を歩いておりますと、目明きが盲人にぶつかります」

 
 

 

そこで盲人もなるほどと思い

「ではお借りしてまいります。どうも目明きと言うものが却って危なくてね」などと言いながら、少し風の出てきた闇の中へと踏み出しました。

さて五六丁も歩いたと思う頃、ドシンと向こうから来た人がこの盲人にぶつかりました。

 
 
 
 

 

「俺にぶつかって来たお前は盲人か」

「何を言ってやがる、俺が盲人だと、貴様こそ『どめくら』だ」

「そうさ、俺は盲人さ。貴様だって盲人のくせに威張るんじゃ無い」

「何、俺が盲人だって。バカを言え」

「貴様が盲人でなければ、俺に突き当たるわけがないじゃないか。こいつが見えぬのが何よりの証拠だ」そういうと盲人は手に持った提灯を高く前方に突き出した。

相手は笑いながら

「笑わしやがる。灯のない提灯が暗闇の中で見えるかい」

盲人の差し出した提灯は、宿を出ると間もなく消えてしまっていたのでした。

 

ж江戸時代の昔話なので 盲人(めくら)という差別用語での表現となっておりますが

ご理解下さい。

 

 

 

 

問題 この笑い話のような昔話から、貴方は何を学びましたか?

備考:

①この回答を御社の幹部候補生たちに書かせてみて下さい。案外考えをまとめるのが難しい問題です。

②各自のレポートを読んで自分の考えに近い者を選ぶか、正反対の考えの者を幹部にするのか、銘回答の者を幹部に昇格させるかは それは経営者の考え方一つです。

③そもそも幹部に見合う回答を書ける人間がいるのかいないか、そこが御社の問題かも知れませんが。

④書かせればレポートの優劣はすぐに判断できますが・・、では誰を昇格させればいいかの判断は大企業以外ではすごく難しく迷うことになります。

⑤そして受講生たちに「なぜ彼を選んだか」の説明もしなければいけません。

                                 by薩摩わがまま親父

 

 

 


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盲断

 三人の盲人が、見世物の象が来たと聞いて、めいめい象を見物に来ました。

甲は恐る恐る象に近づいて触ってみたのが太い脚であったので「象というのは松の大木のようなものだ」と早合点して帰ってきました。

次にやって来た乙の触ったところは象の横腹の部分

「なんじゃ、まるで大きな太鼓のようじゃないか」とつぶやきながら帰りました。

最期にやって来た丙が触ったのは、あの長い鼻の部分でした。

「まるで大きな蛇のようじゃ」と独り言を言いながら立ち去りました。

 

 

 幾日かの後、この三人があるところで落ち合ったときに、偶々象の話になりました。

甲が「君たちは象というものを見たことがあるか」と聞きますと、乙が「あるとも、象を知らないでどうする。それはまるで大きな太鼓のようだった」と答えますと、甲が「とんでもない、象はそんなものじゃないよ、松の大木のようなものだよ」と言いますと。「君たちは何を言っているのだ、松の木のようだとか、大きな太鼓みたいだと、そんないい加減な事を言っていると笑われるぞ、俺はつい最近この手で実際に象に触って来たから言うのだけれど、象は大きな蛇のようにグニャグニャした柔らかいものでちょっと気味の悪いものだよ」と反論したので甲と乙が承知しません。三人とも自分の触った時の経験を盾にとって互いに見えぬ目を白黒させて、額には青筋を立てて争ったということです。

 
 

 

 自分の常識の偏見に気が付かず、狭い経験、誤った見解で他人と争うのは何のことは無い、この盲人の象探りと変わらない盲断であります。いや却って目が見えているだけに質が悪いかもしれません。


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⑨、最後に調所の話にもう一度戻りましょう。

借金踏み倒し策ばかりでなく、広郷はそれに続く薩摩藩の財政と経済の建て直しにも成功している。借金体質の改善に注力する一方、甲突川五石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行い、殖産や農業改革も実施。専売化した黒糖のみで、230万両超の利益を出したり。高島流砲術採用など軍制改革にも成功している。また苗代川地区(現在の日置市東市来町美山)では、調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて、密かに祀られ続けていたという。 

 

 ⑩また広郷は、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。

一方、広郷の死後藩主となった名君とされる斉彬であるが、斉彬時代になってからの方が、領民に対する税率は上げられていた。

広郷や斉彬の死後、斉彬派の西郷隆盛大久保利通明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散する。斉彬排斥の首謀者は斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり弾劾出来なかったので、調所家への風当たりが一層強くなったものと考えられる。

 

西郷は明治10年西南の役で自害、一時賊軍として名誉をはく奪されたものの、明治22年大日本帝国憲法の発布の折に正3位を追贈され復権、明治31年には上野に銅像まで建てられているが 調所の方は何もなし、その迫害は大正・昭和の敗戦後まで続き、子孫は調所の名字を『ちょうしょ』と役所に届けたりと それはそれは苦労したとか。

『子孫に迷惑がかかるということを覚悟しても国のため郷土のため国民の為に自分一人で悪事を背負いこみ、露見すれば自分一人で責任を取る』、これだけの肝の座った政治家が現在の日本に何人いるでしょうか。

 

 ⑪藩のため自らの命を懸けて借金を事実上踏み倒し、財政改善計画を成し遂げ、極悪人の名を一人で背負いこんで73歳で死んでいった明治維新の影の立役者、調所広郷、通称笑左エ門の銅像はわずか一メートルも満たない大きさで甲突川のほとり、天保山公園入口に立っております。鹿児島観光に来られた方々もまず訪れ無いという明治維新の立役者調所広郷の一席、ちょうど時間となりました。また口演いたします。


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初めに昨日の繰り返しになりますが、

当時の薩摩藩の500万両という借金は、年間利息だけで年80万両を超えていた。これは薩摩藩の年収(12万から14万両)を超え、返済不可能であり、「無利子250年払い」も債務整理としてやむを得ない処置でもあった。・・・調所のこの処理の仕方を覚えておいてくださいね。

 

①一方明治政府は明治4年に廃藩置をやり、明治5年には旧藩の債務の無効を宣言して、全国の大名たちの借金を棒引きにしてしまった。

我々もその昔、廃藩置県などと言う言葉は歴史の授業で習った覚えがありますが、薩摩藩が鹿児島県に名前が変わったぐらいにしか記憶しておりません、なんで廃藩置県をやらねばならなかったかの説明誰にも教えてもらえなかった。

簡単に言えば薩摩藩主島津忠義が鹿児島県知事島津忠義に代わっても何も変わらない、一緒だと思ったけれど そうじゃなかったのですね。

 

旧藩主が背負いこんでいた莫大な借金を0にするための方法が廃藩置県だったと聞けば納得、『歴史の真実は表に出ない』が理解できますよね。

この廃藩置県一つで明治の初期に全国の大名たちが抱えていた借金の合計額7400万両(3兆7千億円)、これを明治政府が棒引きにしたので大阪の貸金業者はほとんど潰れてしまった。

ただし薩摩藩からは明治5年(1872年)までの35年間、調所の取り決めた通りに実際に返済が行われており、債権主の商人に調所は、琉球、清との密貿易の権利も与えたのでありました。

調所はあの時「のう越後屋、そなたたちも金を貸して利息だけで食う商売から、自分の金と才覚を使って、自分の腕で金を儲けてみよ」と言いまして密貿易の利権を彼らに与えたのですよ。この時金貸し業だけでなくて貿易業に踏み込んだ江戸の金貸し業の連中は廃藩置県後も生き延びたとか。

 
 

②薩摩の極悪人調所広郷は自らの命を懸けて国の為、国民の為に借金踏倒しという財政立て直しを強行しました。そして悪事が露見したら、誰にも迷惑をかけないように自分一人が命を絶つことで幕を引いた。政治家はこうでなくちゃあいけない。

正義感が強くて弱い者、可哀そうな者をほっておけない、涙もろくて、男にも女にも人気があるだけの男は偉人なんてなれませんよ、こんな男の代表格はフーテンの寅です。偉人には絶対なれない、偉人とは『国の為なら悪事だって平気でやる、そしてそのすべての責任は自分一人でとる』という人のことです。

 

これに対して西郷や大久保、伊藤博文や岩倉具視らは「廃藩置県」と言う法律改正一つで全国の大名たちの借金を棒引きにして英雄になった。かって仕えた藩主たちの機嫌を取っただけではありませんか。自分の友人知人の便宜を図る今の自民党の安倍政治とどこか似ていませんか?いやそのモデルがここにあったのかもしれませんね。

 

③果たして調所と西郷たちどちらが偉人であり、どちらが大悪人なのでしょうか?当時の西郷たちに民主主義とりわけ多数決の論理を教えたのはイギリス、西郷たちはまんまとこれに騙された。

もし、西郷たちが自分たちの政治家としての生きざまの手本を明治維新の20年前に死んだ調所の事件に学んだならば、その後の日本の政治家の姿はずいぶん変わっていたでしょう。

そして今の政治家の姿はこの明治維新の時の西郷たちの姿が見事に踏襲されているのです。

何かがあれば、法律を変えればいい、税金が足りなくなれば5%の消費税を8パーセントに上げればいい、多数の議席を持つ政党のやることはすべて正しいではあまりに短絡的すぎる。簡単すぎる。だから日本は良くならない。今後日本はだんだん段々悪くなる、それこそが当時のイギリスと今のアメリカの狙い。

分かりますか、第二次世界大戦後アメリカが考えたこと、『優秀な日本人を絶対に教育と政治と軍事の分野で世界の№1にしない』。   

そのために『日本の軍事と政治と教育だけは植民地化する』、これが第二次世界大戦後の敗戦処理でアメリカが決意した実質的な日本人植民地化政策の本性。

 

④話を明治維新に戻すと、明治維新後の急速な西洋文明化これが少しおかしいのではないかと気づいたのが西郷隆盛、明治政府が採用した急速な西洋化に疑問を持ち、「西洋文明にも取り入れるものと取り入れてはいけないものがあるはずだ、日本にも絶対に残さなければいけない良い文化があるはずだ」と言い出したが、それこそ多勢に無勢、数の論理・民主主義という多数決で押し切られて最後は下野、そして西南戦争・・・と言うシナリオになっていくのですがその話はまたの機会に。

    話が長くなりますが続きます   (写真は文章とは関係ございません)


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①調所広郷は1776城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、天明8年(1788)に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政10年(1798)に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されてその後は藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。藩が琉球と行っていた密貿易にも携わる。天保3年(183257歳の時には家老格に、天保9年(1838)には63歳で家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。弘化3727日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。・・・・以上は歴史書の記述より抜粋

 

②本日は天保8(1837)薩摩藩家老格でありました調所広郷が起こした『薩摩藩500万両の借金踏倒し事件』について講演いたします。

 

当時、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。

家老として調所が取った財政立て直し対策とはどういうものであったか。なぜ彼は薩摩の極悪人、嫌われ者なのか本日はこの問題をお話いたしましょう。

 

時は1837年、広郷は江戸の薩摩藩邸に両替商の商人たちを呼び集めた。

ここから先を講談風にややオーバーにお話ししますとね。集められました両替商、札差しの面々、いわゆる薩摩藩にお金を貸している人々、

「なんでも近く調所様がご家老にご出世とか」

「ええ、手前どもも、その噂聞いておりますよ」

「今日はそういうお話なんでしょうか」

「いやいや、また借金のことでありましょうよ」と勝手なことを言い合っておりますと

エヘンと一つ咳払いが聞こえたと思ったら、奥のふすまが開き調所広郷が登場した。

 

上座に座るといきなり調所は切り出した。

「越後屋おぬしたちも相当な悪よのう」、一瞬何のことかわからず返事の出来ない越後屋。

「昔からある丁半博打でも胴元の取り分は、勝った客から五分いただくと決まっておった。そうだよなあ淀屋」、

「わたくしは不調法で賭場などと言うものにはとんと縁がございませんのでよくは知りませんが、博打の寺銭は5と聞いております」と如才ない受け答え。

 

「ではそなたらはピンハネという言葉は知っておるか」と今度は一同を見回すように言った。

集まった者たちも「それぐらいのことは知っております」と、軽くうなずいた。

「博打でピンハネと言えばピンすなわち一割の寺銭・手数料を取ることじゃな」と念を押した。

うなずいた東海屋に調所は聞いた。

「では東海屋、やくざの胴元がピンの場所代・手数料を取ったら、そこに出入りする客はどう思う」

「場所代が高すぎると客ともめまする」

「その通り、あの賭場の胴元はがめつすぎる、やくざの面汚し

(わる)と烙印を押されて、国定や清水の次郎長親分から、殴り込みをかけられての悪人退治、これが浪曲や講談の名調子になった、そうだよなあ、越後屋.やくざでもピンハネはいけない」と言って皆の顔をジロリと見まわした。

つられて皆一様に頷いた。

 

同意したのを確認すると調所は身を乗り出すようにして

「ところでおぬしらは薩摩藩よりいくらの利子を取っておるのじゃ」と聞いた。痛いところを疲れて思わず顔を見合わす両替商・札差しの面々。

しまったと思ったがもう遅い、やくざの話なので思わずピンハネは良くないと一同同意してしまったが、どうやら本題がここに隠されていたと気づいたときには遅かった。

「調べてみるまでもない、薩摩藩の借金がたまりにたまって現在500万両、これに対して毎年の利子が80万両じゃ、高過ぎはしないか、高利貸しすぎないか?淀屋利息はいくらになるかのう」と尋ねた。淀屋がうつむくように「年一割6になります」と小さな声で答えた。

 

「やくざはのう、当て字で書けば893、つまり足して20下一桁が0、花札賭博のオイチョカブで言えば最低のぶたで0、これ以下がない0の人間、すなわち人間の屑だから893だ。そのやくざでも天下の決まり事を守って寺銭は勝った客から5分しか取らない。それを3倍以上の利息を取りやがってこれは断じて許せない行為、法律違反も良いところ、もし儂がお恐れながらと徳川幕府に申し出れば、そなたらは一族郎党孫ひ孫まで全員が、市中引き回しの上、磔獄門じゃ、分かっておるのか越後屋」

 

「いえ そそれは組合で決まっておりますことで・・・」、

「やかましい。それがおかしいと言っておるのじゃ、鎌倉幕府の昔から博打の場所代が五分。そなたらが勝手に決めた利息が1割六分、そなたらはいつからお上より上になった?」

横から大阪淀屋の大番頭が口を開いた。

「調所様に申し上げます。これには色々と深い事情がございまして、薩摩様と手前どもとの話合に寄りまして合意の上の利息でございます」

「何、それではそれで納得した薩摩が悪いというのか薩摩が」

「いえいえ、滅相もございません、そのようなことはただ、双方に一割六分で取り交わした約定書がございます約定書が」これこそが調所の待っていた返事

「ではその約定書をもってわしが奉行所に訴え出ればどうなる」

ここに来てようやく事の大事さに気づいた淀屋の大番頭の顔色がサーツと変わった。この約定書こそ、両刃の剣、両替商の命の綱であり、同時に表に出れば『不正の動かぬ証拠』。ここで完全に勝負はありました。

 

「では重ねて淀屋に尋ねるが、借金をする場合、貸し手と借り手のどちらの立場が強いのじゃ。答えるまでもない、答えられぬであろう、おぬしらが『薩摩様、一割六分の利息を頂ければ、何とか10万両までならご用立ていたしますが』と言ったのではなかったのか。それとも淀屋、薩摩藩が利息を一割六分払うからなんとしても10万両用立ててくれと頭を下げたのか、どっちじゃ」

「いえ、それは・・」 答えられるはずがございません、

士農工商の身分制度が存在した時代に武士が商人に頭を下げてしかも藩の重役が自分たちに頭を下げて借金をしている実態などは口が裂けても申せません。こうして正論が却って藪蛇になって淀屋の首をジワリと絞めてしまった。

 

「だから先ほどから言っておるではないか、わしが幕府に訴え出てどちらの言い分が正しいのかお白州の上でも江戸城大広間でもどこででも決着をつけると言っておるではないか、のう分かってくれ、それほど薩摩藩の台所は厳しいのじゃ」と脅したり頼んだり、硬軟織り交ぜた巧みな戦術

 

「第一この事実が城下の血気盛んな若侍たちの知るところとなってみよ、そなたらの店は焼き討ち殴り込み打ちこわし、いづれにしてもそなたらの命は亡くなるのは必定」とうそぶく広郷

この脅しに商人たちは肝を冷やした。鹿児島弁で言えばひったまがった。気の小さい両替商はブルブルと震えている。

それは「この男は本気だ、調所ならやりかねない」という凄味と必死さが顔面に現れており、将に自分の命をかけての交渉だというのがその場にいた全員にひしひしと伝わったのであります。  続く


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⑤坂口安吾は書いている

国が危機の時にいざというときに立ち上がったその若者を評価したい。

戦争の特攻隊員たちは西郷と同じ気持ちで飛び立った。

特攻隊員の精神はイスラムの自爆テロとは根本的に違いますよ。

鹿児島知覧にある平和祈念館の特攻兵士の遺書の中に、緑が美しくこれから死にに行くことすら忘れてしまいそうです。

こういう感性を持った特攻隊員は正しい感性を持って死に向かっていると私は思います。

 

●それでも多くの若者が「行くべきか、やめるべきか。死にたくない、でもこのまま何もしなくていいのか、誰かが何にかしなくてはこの国は愛する家族は、愛する人たちは、どうなるのだ・・・」と自問自答したに違いない。

 

●いざというときは若者が国のために愛する人を守るために飛び立つのではないだろうか、そしてそういう日本の国の若者であってほしいと私は思います。

後に続くを信ず=平和な日本、日本の繁栄を信じる。その為に僕らは死んでいく、

 

●いま日本には自己中心的な若者が増えつつあります。

「国が危険な状態になった時は、戦争に行きたい人だけが行けばいい、俺は逃げる」と平気で言う人間が増えてきました。・・・正しい感性こそが国を救うのです。正しい感性を大人も若者もそして子供たちにそれを教えることこそ、国の近代化にあたり国造りにとって肝に銘ずるべきことであります。

 

 

⑥日露戦争でソ連に負けていたら、その後の日本人は日本語なんて使っていませんよ。第二次世界大戦後アメリカが日本を植民地支配しておれば我々は今頃独立運動の真っ最中かもしれない。

そういう意味では日清日露戦争に勝ったこと、第二次世界大戦には負けたけど、植民地にならずに日本人として生きてこれたこと、奇跡に近い近代史の中で我々は生きているのです

アフリカや北朝鮮やイスラエルに生まれなくてよかったよね、日本に生まれただけでもものすごく運が良いのですよ。全員一億の宝くじに当たったようなものなのです。

 

●もう一度西郷をまとめましょう、西郷は「アンチ近代化の代表者」であった。

国の近代化にあたり、自国に生まれたことへの感謝と誇り、そして自分の国を愛すること、それが「受け入れるものと受け入れないものとの区別」につながります。・・・我々が肝に銘じておかなければならないことである。

 

⑦先輩たちが守ってきたこの日本国を我々後輩が守り続けなければいけない。

この国をもっもっと良くして守って子供や孫にバトンタッチする責任が我々みんなにあるのです。それを150年前西郷は身をもって我々に示した。これが西郷が愛され評価される本当の理由であります。   終わり             by薩摩わがまま親父


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①西郷がいて日本の近代化は実現した。

西郷がいなかったら、日本は軽薄な近代化に走り、やがて列強の植民地の一つに成り下がっていたに違いない。繰り返すが西郷がいなかったら、日本は明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至る約80年間に一度は西洋列強の植民地になっていただろう、植民地を経験せずに近代化はなかったであろう。ここが西郷の一番優れたところ。

 

近代文明化、あるいは鎖国をやめて開国いわゆる西洋化に当たって「日本古来の良い文化まで捨てて西洋化に走ってはいけない」と考えた西郷は偉人であり、後世の人々の記憶に残る人物であったということであります。・・・これこそが肝に銘じておかなければいけない一番目のこと

 

実は国民の中にも「ヨーロッパが優れているのはわかっている、何もかも捨てて西洋化、文明開化という明治政府のやり方でいいのだろうか」と疑問を持つ者、「このままではいけない、いけないのではないか」と漠然と思っていた人たちは相当数存在していた。

 

②昨日までの生き方を全否定してはいけない。

「全部間違いでした、すべて改めます、今日から西洋化にホイホイホイ]では駄目なのだ。その国にはその国独自の絶対に残しておいた方が良い文化があるのだ。

 

第二次世界大戦が終わった時、敗戦国日本は明治維新と同じ考え方で「日本は間違っておりました、すべて改めます、アメリカさんの言うことはすべて正しい、アメリカ化へホイホイホイ」をしたのであります。こうして西郷の教えは二度までも破られた。

 

③第二次世界大戦は日本がすべて悪いわけではない。・・・政治学者岩田温氏は語る。

『アジアの人種差別を撤廃させるのだ』という日本の言い分は間違っていなかった。

 

国際連盟の設立時、「人種差別を辞めよう」と世界で最初に言いだしたのは日本国であった。

オーストラリア(白豪主義)は即反対「人種差別を辞めるなんて言い出すのなら、我が国は国際連盟に加盟しない」とまでも言い出した。

 

コロンブスはアメリカ大陸発見の航海中にある島にたどり着いて、そこの住民たちに食料その他で大変にお世話になった。この時のことをコロンブスは「この国の人々は最も奴隷に適している」と本国に書き送っている。・・・この外国人との感性の違いもまた肝に銘じておかなければいけないことである。    続く


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明治維新における戦いはそれまでの日本の戦いのやり方を激変させた。

1600年の関ヶ原の戦い大坂冬の陣・夏の陣以後250年以上経っていますから、世界は急速に進歩し、戦争もまた大きく変化していた。

 

●官軍は鳥羽伏見以降のいわゆる戊辰戦争で戦死した相手方の埋葬も葬儀もやらせなかった。死体は野放し、腐って朽ちるに任せる、それまでの戦いでは降参した相手をそれ以上攻めないという武士の美徳があったのに。

 

●それまでの日本の戦いは敵の大将さえ討ち取れば戦いはそれで終わりであった。

それが戊辰戦争を機に皆殺しの戦いに変化した。いわゆる西洋式の戦争になった。江戸城無血開城以後も官軍は北海道函館まで幕府軍を執拗に追いかけて行った。幕府軍の総大将徳川慶喜がいない軍を攻め続けた。なぜなのだろう。

 

●刀と槍と弓の時代の戦争は一人が一人をやっつけるという戦い、大量殺礰兵器の銃と大砲と軍艦が登場して戦いのやり方、:ひいては戦いの終了の仕方まで変えてしまった。その結果皆殺しの戦法に変わってしまった。日本人は日本人としての武士の美徳を失ってしまった。250年間戦争のなかった日本にこういう戦いの仕方を誰が教えたのだろうか?

 

②話は変わって西南戦争のこと。

西郷が『負けると分かっている西南戦争を実際にやったこと』の評価は先に書いた通り。

本日はその『罪』の部分

 

●西南戦争では誰一人降伏しないで皆死んでいったという事実こそがイスラエルやパレスチナのテロリストと西郷の考えが紙一重ではないかと以前書いた。庄内藩に対する戦後処理では寛大すぎる処置を命じておきながら、自分が戦いの先頭に立った時の西郷は「総員全力で戦え、恥辱を残すな、自分たちの戦い方を後世の人々に知らしめよ」という命令を出してしまった。

 

●中東のテロリストたちが子供たちを『国にために死ねばあの世で英雄になれる』という教えで洗脳する、幼い子供が爆弾を抱いたまま、何の疑問も持たずに笑顔で自爆テロを実行する。これと西南戦争で西郷を信じ、西郷の命令通りに死んでいった若者たちの死が私の頭の中でかすかにダブルのですが、皆さまはどのように考えられますか?

 

●西郷の西南の役での玉砕戦法、死にざまは日本人に大きな影響を与えた。

西南の駅は1877924日、西郷たちが立て籠もった鹿児島城山の総攻撃で幕を閉じた。西郷は自刃、最後まで戦った372名(4名を除く)が全滅、半年間の内戦で西郷軍6765人、政府軍も6403人という大きな損失を被った。

この西郷の死にざま・西南の役が明治維新後の日本を『戦争大好きの国』に変えてしまったのかもしれない。

 

●維新後150年の今日、振り返ればその前半の75年、日本は戦争に明け暮れた。

日清戦争、日露戦争そして第一次世界大戦、最後に第二次世界大戦に負けた1945815日まで。これこそが西郷の功罪のうちの罪の部分でしょう。

 

●西郷は『敬天愛人』で知られるように『天命を悟り天命に従って行動するのみ』という考え方であった。

だから『開国という目標』を天命と悟った西郷は『討幕という手段』でそれを実現しようとした。

同じように『西南の役で死ぬのが天命』と悟った西郷は「おいどんの体は貴方たちにあげもそ」と言っている。

天命にさえ従えば、『その実現の手段はほとんど問題にしないところ』に西郷の危うさがあった。

 

●西郷が「自分はこの戦いで死ぬのが天命」と悟ったとしても、西郷を信じ西郷とともに戦った七千名からの同志たちの一人一人の天命も「西郷とともに死ぬ」ということであったろうか?そんなことは絶対になかったはずだ。私はそう思うし、西郷にもそう思って欲しかった。

他人の天命まで自分と同じと思った西郷は最後に判断を間違えた。

 

●『人知を超えた天とか神からのご指示に基づいて人間は行動するのだ』というこの西郷の考え方の中に危うさが潜んでいるような気がしてならない。

 西南の役、総攻撃の前夜、「死ぬのはわし一人で十分、君たちは絶対に死んではいけない、たとえ生き恥を曝そうと耐えて忍んで生き抜いて、より良き明日の日本の国造り為に命をかけよ、このわしの思いを実現してくれ」と一緒に死のうとする若者たちを諭すべきであった。

勿論そう言っても何人かは殉死したでしょうが、総大将なら、そう言わねば「テロリストと同じ思考経路だ」と言われても仕方がない。

 

この西郷の思想が明治政府の中に、あるいは陸軍の中にDNAとして受け継がれ、その後の日本を戦争国家に変貌させて行ったのだというのは考え過ぎか?

私も薩摩人として、大河ラマの『西郷どん』が始まったのを機会に西郷の功罪に触れる必要があると考えて私見を書いてみました。

 


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西鋭夫教授の明治維新説をご紹介します。傾聴に値しますよ。

 

1868年戊辰戦争の初戦『鳥羽伏見の戦い』で幕府軍1万五千に対し薩摩長州軍5千の戦いは官軍である薩長軍が錦の御旗と最新兵器である連発銃に大砲を駆使して幕府軍を打ち破った。

②驚いた徳川慶喜は大阪から江戸へ逃げ帰り、謹慎恭順の姿勢を取った。戦う気力が失せたのであった。

徳川家康が江戸幕府を開いて250年余、戦争のない時代が続いたのだから、誰も戦い慣れしていない。大義名分と最新兵器を持つ官軍の勝利は必然であった。

 

これにより総大将を失った幕府軍は賊軍の汚名を着せられたまま、上野の彰義隊、長岡城の戦い、会津の白虎隊の戦い、そして函館戦争五稜郭の戦いに負け続ける。その間4月にはあの薩摩屋敷での西郷と勝との会談が行われ、江戸城無血開城となったにも関わらず、戦いは翌年までも続き官軍は執拗に幕府軍を追い続けた。

④西鋭夫教授は言う、「明治維新はイギリスの陰謀、清国でやったアヘン戦争はイギリス軍も大きな痛手を被った。そこでイギリスは考えた。「日本を開国させ、植民地化するための一番の方法は日本人同士を戦わせること」と

自分たちは直接表に出ない、この時幕府と薩長とどちらに味方するか?答えは『薩長軍』であった。

250年も続く徳川幕府より、新興勢力の薩長の若者たち中心の方が将来御しやすい、この考えは間違っていなかった。

その若者たちに軍資金と武器を調達してやれば幕府は倒れ開国となる、その新政府を陰でイギリスとフランスが牛耳る。この戦略が明治維新の裏側に確かに存在した。・・・と

 

⑤だから土佐の脱藩浪士・坂本龍馬を介して薩長は長崎のグラバー商会(武器商人グラバー)から武器や軍艦を手に入れることが出来た。坂本龍馬がなぜ亀山社中を設立し、海援隊を作ることが出来たのか、そこには竜馬にどこかの誰かからの資金の提供がなければ何もできなかったはずである。

但し、明治維新が成功したときに肝心の薩長の財政が破綻し、借金を返せなくなったのはイギリスフランスにとっては計算外ではあったが。ともかくも江戸時代アヘンを吸引する習慣のなかった日本では隣国清で成功したアヘン・モルヒネ作戦は使われなかった。そのことは日本にとって幸いであった。

 

⑥やがて明治政府が誕生、新円発行にイギリスの香港上海銀行の横浜支店(1866年設立)が協力し、その際、作られた20円金貨は主に外国との貿易に用いられ、その8割が外国に流失したと教授は語る。

香港上海銀行は清国の銀を安全に本国に送るために1865年に設立されたが、なぜ維新前に日本の横浜支店が作られたのか?イギリスの狙いは日本の金、これが明治維新前にイギリスが日本にわざわざ横浜支店を作った理由、つまり周到な準備がなされた上でのイギリス主導の明治維新であった。

 

イギリスは1750年から90年ぐらいまで250年間にわたり世界の4分の一の国(アフリカ・インド東南アジア・清国・オーストラリア・ニュージランド・インドネシア・フイリピン等)を植民地化していたのですよ。日本だけをほっとくはずがない。

 「アヘン戦争ではイギリスは34兆円、フランス7兆円の賠償金を清からせしめている、自分たちでアヘンを持ち込んでいて、戦争に勝利すれば何でも言える。明治維新のどさくさで黄金の国ジパングの『金』はそのほとんどが国外に流失したのである」とも言われた。

 

⑧今日現在、私は「この西教授の説が明治維新の真相に一番近いのではないか」と考えております。

市井の一老人の言うことですし、しかも正しく西教授の説を伝えられたかも自信はありませんが、覚えている範囲で書きました、明治維新を考える一つの参考にしていただければと思っています。

「明治維新は単に『薩長を中心とした若者たちのクーデターが成功した』というような単純なものではない」とそれだけは知っていただきたいと思います。

 

⑨西教授にご興味のある方はぜひインターネット等で検索の上、書籍をお読みください、とにかくすごい人ですよ。

思いかけず、多くの方々が私のブログを読んでいただいておりますので、ここまで書かせていただきました。ここまで知ると大河ドラマは空想冒険ユーモア恋愛小説に見えてくるかもしれませんが、目くじら立てずに西郷どんのヒットを願いつつ、私のこの話もバナナの叩き売りの口上の一つと思って笑っていただければ幸いであります。


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1、明治維新後、日本国国民も政府の役人たちも西洋文明の取入れと急速な西洋化に傾斜していった。

西郷は「西洋列強は文明国ではない、野蛮国だ。なぜならアジアの未開発の国々に野蛮なことをしているではないか」と言い切った。「文明国なら未開発の国を優しく導き育てなければいけない」というのが西郷の文明開化論だった

・・このころのイギリスは世界の4分の1を植民地化していたし隣国清はイギリスからのアヘンによりズタズタ・ボロボロにされていた。(日本が鎖国の時代の1842年斉彬34歳は、『アヘン戦争顛末記』を読んでいる)・・・この辺から西郷自身の考え・言葉です。西郷の40過ぎからの言葉は傾聴に値します。

 

2、西郷の評価はどこか?  最初に二点お話しします。

西郷の評価は西南の役を実際にやったこと(負けると分かった戦争を起こしたということ)に尽きる。

 

(『政府に尋問の筋・廉(かど)あり、日本の古き良き伝統や文化を捨て、なんでもかんでも西洋の文明を取り入れ、吸収しようとする日本国の態度はおかしいのではないか」というのが西郷の西南の役の大義・言い分。

 

「戦争は勝つためだけにやるのではない、負けると分かっている戦争もやらなければならないときはやるのだ」と言う考え方

 

西郷のこの抵抗の精神こそが素晴らしいと福沢諭吉は言っている。

「第二第三の西郷が出てきて初めて日本国は良くなる、西郷が言うように何でもかんでも西洋一辺倒ではいけない」とも書いている。

 

②一番大事なことは「日本に対する愛があるか」ということ。

「この時代鎖国していては、つまり開国文明化しなければ西洋列強の植民地になるぞ」という斉彬の考え方が西郷の討幕の根本にあり、開国後いわゆる西洋化に当たっては「日本古来の良い文化まで捨てて西洋化に走ってはいけない」と考えた西郷は偉人であり、後世の人々の記憶に残る人物であったということであります。

 もう一回繰り返しますよ、明治政府の中で『西洋文明のうち取り入れるものは取り入れる。日本文化の残すものは残す。西洋文明といえども取り入れないものは取り入れない』この考えは西郷一人しかもっていなかった。・・・これこそが西郷が偉人であったと言われる所以です。

 一方西郷の盟友大久保は明治4年(1871年12月)岩倉具視らとアメリカ・イギリス・ヨーロッパ視察団の一員として西洋列強の国々を一年以上かけて歴訪しています。そこでヨーロッパの国々の圧倒的な機械化の姿を目の当たりにした大久保は「西洋文明を取り入れねばならぬ、」と早急な西欧化に走ります。西郷に対して自分の洋服姿の写真を何枚も送っている、西郷は「それが見苦しい、似合わない。そんな姿で写真を撮るなんて気の毒だ」と酷評している。

 

③大久保は明治天皇に対し、国家の元首として西洋諸国の要人たちと洋食での食事会もあると考えて、テーブルマナーの講習をやり、実際にスープ皿からスプーンですくう所作まで教えている、一方その席に同席していた西郷は「私は田舎者だから、そげな作法は苦手じゃ」と言い、片手でひょいと皿を持ち上げるとずるずるとスープを口に押し込んだという。

 テーブルマナーやナイフ・フオークの使い方は大久保に習いながら、明治天皇は西郷の気取らない姿が甚く気に入ったという。

 

 西欧の実情を目の当たりにした大久保、日本に残った西郷、どちらの考えが正しいのか断言はできませんが、少なくとも日本は建国3千年の歴史があり、イギリスの5~600年の歴史と比べても、日本には日本古来の文化の良さがあるという西郷の考えに賛成したいと私は思います。

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