前ブログの続き

 

見た目に涼しいハス池や、

色とりどりの花が咲き誇るガーデン。

その向こうには、

パステルカラーの洋館が佇み、

異国の地に紛れ込んだかのような

雰囲気が漂うここは、

敷地を囲むように

強固なレンガ門が張り巡らされた

「網走監獄」なのでした。

 

どういうわけだか、

行きたい場所候補ナンバー1に

この網走刑務所を挙げていた娘。

対して、

あまり気乗りがしなかった私は、

網走観光ついでに立ち寄る的な感じで

付き合ったわけだけど、

館内に足を踏み入れた途端、

重圧に耐え抜いたような

独特の空気感にドハマり。

 

網走監獄の100年以上の歴史が記された

案内板を隅々まで読み、眺めてるうちに、

最果ての地、網走に刑務所ができた

暗くて悲しい理由がわかりました。

明治時代、開国したての日本は、

富国強兵政策まっしぐら。

未開の地だった北海道を

ロシアの脅威から守るためには、

北海道の開拓が必至でした。

いっぽう、

幕藩から天皇制に変わった日本は

各地で反乱が勃発し、

国賊といわれる罪人が増加し、

刑務所が次々と建てられた。

そこで、北海道の開拓に

囚人を労働力として使うことになり、

北海道に集治監がつくられ、

囚人が集められた。

北海道央とオホーツク沿岸を結ぶ

道路を作ることになり、

1200人もの囚人が送り込まれたのが、

後に網走刑務所となる網走囚徒外役所。

逃亡を防ぐために

囚人は鉄の鎖でつながれながら昼夜兼行で

過酷な突貫工事に従事。栄養失調やケガ、

ヒグマに襲われるなどして

多くの死者を出したといいます。

死んだ者は現場に葬られ、

目印に鎖を墓標脇に置かれたことから

囚人の墓は「鎖塚」と呼ばれ、

旭川から網走を通る道は、

囚人道路といわれるように。

未開の地だった北海道では、

他のエリアでも

囚人が開いた道路が点在。

 

自分が生まれ育った北海道は、

そうした犠牲の上に

成り立っているんだということを、

この年齢にして初めて知った私。

歴史に疎い自分を反省しつつ、

さらに刑務所の敷地内の散策を続けました。

 

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