【5月3日(月) 憲法記念日】

主郭にあった説明板によると... 

建久年間(1190-1199)に作用荘地頭となった山田則景は隠居後ここに高山城を築いて住み、末子家範が生まれ、それが後に作用荘南端の赤松に移り住み赤松姓を名乗った。

赤松氏発祥の地と言われ...云々とあります。 

作用ICの東側に聳える標高約261mの高山の西肩の尾根上標高250m地点の主郭を中心に東西及び北西の尾根に段々の郭を配置した連郭式山城で、所々に石積みが見られます。 

また南西尾根先端の鐘撞堂跡手前には二重堀切が残ります。 

宍粟郡を支配下に置いた宇野氏の西端を守る境目の城とも、尼子勝久が上月城へ入る前に一時的に拠ったとも言われています。 

所在 兵庫県佐用郡佐用町横坂

 

①登城口にある駐車場から居館跡を見る。

②この谷の左側が長谷高山城。

③左側の尾根の先端に向け登っていき、二重堀切に到達します。

④二重堀切の南側に鐘搗堂跡と呼ばれる曲輪があり、奈良時代に建立された長谷寺の鐘搗堂があったと案内にありました。

ここから作用平野が見渡せることから、城が築かれた跡は出丸であったと思われます。

⑤主郭方面へは、鐘搗堂とは反対に尾根を登っていきます。

⑥主郭から南側に向けては7段の段曲輪が続いています。

⑦主郭

⑧主郭にある城址碑

⑨主郭から北曲輪を見る。

⑩山上曲輪から北曲輪越しに主郭を見る。

⑪主郭へ戻り、段曲輪の途中から中曲輪を抜け西曲輪へ。

⑫西曲輪切岸東側面にある石積。

⑬西曲輪切岸南側面にある石積。

⑭西曲輪

⑮西曲輪西側の段曲輪

⑯居館跡から城跡を見上げる。

 

「活動記録」