スリランカの旅 ⑨ スリランカという国 | 水上繭子*表千家茶道・大人になったら始めたい いのち目覚める暮らし教室・植物療法ジェモセラピスト

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「インド洋に浮かぶ翡翠のペンダント」


「世界で一番素晴らしい島」

 

スリランカをそう褒めたたえたのは、13世紀にスリランカにやってきたマルコポーロ。

 

近年、スリランカ人気はヨーロッパで高まり、アメリカ、ロシア、中国、日本と広まってきているそうです。


2010年にはニューヨークタイムズ紙で

訪れるべき国の1位。


2013年には世界的に有名な

旅行雑誌ロンリープラネットの

最も旅行したい国の1位となりました。



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近くの海岸。


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路地を歩く街の人たち。

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食堂

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「侍サムライ」という名のお鮨屋さん。

でも、ラーメンもあるらしいです  笑。

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スリランカは、インド大陸の先に浮かぶ小さな島で、面積は北海道の約8割くらいの大きさです。

 


「ウェッダ」と呼ばれる先住民族がいますが、今のスリランカの祖先の大半はインド大陸が渡ってきています。


紀元前5世紀に北インドからシンハラ族が移住し、紀元前2世紀になると南インドからタミル人がやってきて、シンハラ人とタミル人が時に争いながら共生している国です。

 


16世紀に入ると、香辛料の貿易を狙ってポルトガルに、17世紀にはオランダ、18世紀初めにはイギリスに植民地にされます。


1819年にはキャンディ王朝をイギリスが途絶えさせ、それから1948年までの133年間スリランカ全土を支配下に置きます。

 

かつてスリランカに目をつけた西洋人にとって、スパイスは大きな魅力でした。多くの外国に翻弄されてしまったのも、このためです。


なぜなら、命を治癒する伝統予防科学の軸となるのが、スリランカのスパイスだったからです。


歴史の教科書では、「香辛料」「胡椒」と書いてあって、なぜ香辛料がそれほど魅力的なのか、当時はよくわかっていませんでしたが、食べ物の保存や健康を整える効果のある、香辛料、薬草、スパイスはどうしても手に入れたいものだったのですね。



そしてまた、世界的に広がった魅力的な健康食品が「お茶」です。

 

この植民地時代にセイロンティ、紅茶のプランテーション産業が確立します。

 


1972年、私が生まれて4才の頃、「スリランカ民主社会主義共和国」と名前を改め、民主主義と社会主義の両方を大事にする国としてスタートします。


自由経済を基本にしながら、大学までの公教育や生涯の医療費はすべて無料だそうです。

これは、仏教の精神からくると言われています。

 

 

日本とスリランカは深い関係にあることを恥ずかしながら私は今回の旅まで知りませんでした。

 

大きなキーワードは「仏教」です。

 

19世紀に僧侶、釈興然が、日本人初の留学生としてスリランカを訪れます。


日本人初の小乗仏教徒として、スリランカで7年学んだあと、大乗仏教が主流の日本に帰国してからも、生涯、徹底して黄色い袈裟を纏って戒律を守っていたそうです。


スリランカの仏教運動家アナガーリカ・ダルマパーラと共に、仏教復興運動に貢献しました。


アナガーリカ・ダルマパーラもまた日本に4回来ています。

 


その後、第二次世界大戦で敗戦国となった日本。

1951年のサンフランシスコ講和条約会議で、スリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナ(のちの大統領)は、戦時中に日本から攻撃を受けていたにも関わらず「憎しみは、憎しみによって癒えず、ただ愛によってのみ消える」と演説し、日本への損害賠償請求権を放棄し、他の国にも同じように放棄するよう呼びかけ、さらには日本を分断する案を否定して今の形のまま残すように訴えたのです。

 

演説の言葉は仏陀の言葉(ダンマパーダ5句)で、「スリランカも日本も他のアジアの国々もみな、仏教で繋がっている」と言っています。

 

ジャヤワルウダナは、サンフランシスコ講和会議に向かう途中で、「日本がなぜ戦争に突入したのか」を知るために日本に立ち寄り、日本の学者たちから話を聞きますが、その中に興然の弟子である鈴木大拙もいました。


ジャヤワルダナが大拙に、日本とスリランカの仏教の違いを尋ねると、大拙は「大事なのは違いではなく共通点である」と答えたそうです。



このことは、スリランカ人なら誰でも知っている歴史だそうですが、日本人で知る人は少ないかもしれません。私は初めて知りました。

 


その後、もっとも早く日本と国交を結んだのがスリランカで、経済的な交流は続きます。


また、1954年の「コロンボプラン」への加盟で、日本は発展途上国に対して援助を出すことが決まり、スリランカへの経済援助を長期にわたってしてきています。


私が大学を卒業して就職したOECF(海外経済協力基金)は、その多くを担う組織だったと思います。

 

1921年には昭和天皇、1981年には当時皇太子夫妻だった、現在の天皇皇后両陛下がご訪問されています。

 

 

先日、あるスリランカの医師が話してくれました。


「僕のおじいさんは、アーユルヴェーダの医者だった。スパイスや沢山の技術を知っていたけど、死ぬ前に全部大事な資料を捨てていた。


いろんな外国の人がスパイスとその使い方を知りたくてやってきたけれど、植民地にされても、スパイスが輸出されても、その使い方、命の治癒の方法までは簡単には教えなかった。流出させなかった。


だから、諦めて西洋の人は、他の方法で製薬を開発するようになったんだ。すべての人類の健康な生活のために必要な知識を、スリランカ人ももっと教えたらよかったんだ。


だから、僕は日本の人をスリランカのアーユルヴェーダで健康にしたいんだ。」と。

 


私はその時に思いました。


スリランカの人は、西洋の国から経済的、近代的豊かさとの交換を持ち出されても、スパイスや薬草の知恵は自分たちの国の宝であるとして簡単には手放さずに守り続けたのだと。


そこにも、スリランカの人の価値観が現れているように思いました。


今でも、スリランカの人々は、シンプルな暮らしをしているように見えました。東京とは全く違う暮らしぶりではありますが、不安や焦りや不健康な印象を感じませんでした。

 

幸福とは?

健康とは?

豊かさとは?


問われているように思いました。

 

セイロンの語源は、予期せぬ発見や出会い、それらを見つける能力を指すセレンディピティという言葉だそうです。


いかに、スリランカが魅力に満ちた国であったかが感じられます。


(参考文献)

 

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