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友人と何気なくおしゃべりをしていたら、友人がタロットカードをひいてくれました。


それが、これです。



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左から2番目の空中ブランコを見てください。


右が私、ぶら下がっているのが子どもです。

メッセージは「信頼して手放す」とのこと。


 

タロットカードなんてなんの根拠もない、と思う人もいるかもしれません。

私もよくわかりません。


なのに、このカードの絵を見て、私は涙がぽろぽろこぼれました。


「信頼して手放す」「子離れ親離れ」なんて、子育てのいろいろなタイミングで言われてきたことです。


けれど、絵に描かれている空中ブランコは、これまでのどの言葉よりも、そのことの大切さが突き刺さりました。



 

「自分のことに責任を持ちなさい」

「親や周りの人のせいにするのはやめなさい」

「周りの人に頭を下げて謝ること、頼ることも覚えなさい」


子どもには、そう言ってきました。


家族というチームの中でそれを練習させようとしてきたつもりでした。


でも、本人は、外に飛び出してやってみようと未熟ながら決意しています。


空中ブランコのカードによれば、向こう側では、子どもを受け止める準備もできているのに、私が文句を言いながら手を離さないでいる。


私の苦しみも、子どもの苦しみも、私が手を離さないでいることでした。


私が、ちゃんとよいタイミングで手を離さないと、子どもは落ちます。


向こう側に橋渡ししてやることができないばかりか、私との信頼も切れてしまう。

 



本当に、生きるということは、綱渡りのように思うことがあります。


自分が生きるだけならば、まだよかったけれど、子どもを一人一人、空中ブランコのように、次のステップへと渡してやることの連続。


もちろん、手を握ったまま往復している時間もあります。


向こう側のブランコがやってきた時、一番よいタイミングで手を離せるか、これが子育ての難しく不安なところかもしれません。


でも、離さなければ、ずっと子どもは宙ぶらりんのまま。


一番よいタイミングで、ふわっと離れて、また向こう側にギュッとつかんでもらえた時の何とも言えない快感。


今まで気づかなかったけれど、思えば、私もそういうタイミングがあったのだと思います。


あまりに自然に次へのステップへ飛んだので、手を離してくれた人の不安や迷いなど考えてもみませんでした。

 

この快感を感じている子どもは、自分一人でブランコに乗って、いろんなステップへと渡って挑戦していけるのかもしれません。


タイミングだけではなく、向こう側から来るブランコが信頼できる相手なのか、見極めることも学ぶのでしょう。

 

 

「信頼関係」「愛」「友情」「絆」


みな、科学で検証もできなければ、数値化することもできないし、目でみたり触ったりすることができません。


でも、多くの人が信じています。


「神」と言うと突然、ある一部の人たちの眉間に皺がよるものですが、それらのものは誰も疑わず、むしろ求めています。

 


昨日は、「キリストの復活を信じるか」という神父様のお話を聞いてきました。


集まっていたほとんどは、カトリック信者です。

キリストの復活を信じることからスタートしているキリスト教であり、それを信仰する者たちです。


けれど、原点に戻ってみると、それを目撃したことのない私たちはどこか不安で、信じようとしているけれど、「あるのかどうかわからない」と思っているのです。



 

あなたは目に見えないものを信じますか?

 

私の祖父は死んでいます。

この世に肉体はありません。

見えません。

では、存在しなかったのでしょうか。

今は、まだ、祖父に会ったことのある人も生きています。関わったことのある人もいます。

でも、100年も200年も経てば、祖父の記録はどこかにあっても、本当に生きていたのかどうかを確かめるすべはなくなります。


では、存在しなかったのでしょうか。

祖父の言葉やしぐさは、いまでも私を力づけてくれることがあります。

赤ん坊の頃に祖父の着物の懐に入れてもらっていたエピソードを思い出すだけで、自分を大事にしなくちゃ、と思い出したりします。


みなさんの大切な人が見えない存在になっても、生きる力になっています。



 

結婚20年を超える家人と私の間には愛情はあるのでしょうか。確かめることはできません。


携帯をこっそり見ても

お互いのスケジュールを確認しても

手を繋いでみても

本気で喧嘩してみても

目に見えるものではありません。

でも、私は今、こうしてぐらぐら揺れながらも一緒に暮らしていることが、私の今の生きる力になっています。



 

神父様は、そのことを、


『「信じる」という行為のダイナミズム』


とお話になりました。



私は、今、生きています。


一つには、私の肉体がもつ、「生きる力」があるからです。


もう一つは「生かす力」のおかげです。


自然の力のおかげで農作物が育ち食べられる。


本当にいたかどうか、目には見えない多くの先人たちの積み重ねの技術によって、あたたかい住居や衣服がある。


空中ブランコでいえば、私がすっかり忘れていた、私を手放してくれた人たちも私を「生かす力」となってくれていました。


その「生かす力」は目には見えません。

私は見たことがありません。

 


「信じるとは、生かす力に信頼し、自分を開き、生かす力に全面的に、自分を委託する。生かす力は開いた心から、その人の内に流れ込み、その人を生かす力で満たす。満たされている時、その人の持つ力が刺激され、その本来の力を発揮し、その存在を十全化できる。」

 


神父様の教えです。


これは、聖なるものにも、親子の愛にも、恋愛、パートナーとの絆にも、友情にも、当てはまります。


心を開き、周囲の目に見えない「生かす力」を信じた時、その人自身が「生かす力」で満たされる。


どんな親だったかどうかでなく

美しい恋愛だったかどうかではなく

親が存在し、その人なりの形で自分を愛してくれた人が存在し、そばで話を聞いてくれる友達が存在し、太陽と月があって季節が巡る、そのことに心を開くだけで、その人の持つ力が刺激されて、本来の力を発揮し、最大限にミッションを達成することができる。

 


キリストが復活したかどうかを、今、私は確かめることができませんが、神父様のお話を聞けば、「生かす力」が注ぎ込んできた人の心の内の平和と豊かさと自由は、真実だとわかります。



よく感謝をしましょうと言われますが、見えない力、生かす力が、私たち一人一人に存在していると信じていなければ、感謝もできないのです。


イエスや仏陀やその後の様々な聖人を言われる人たちは、そのことを伝えたかったのです。


自分の偉大さではなく、特定の教義の素晴らしさではなく、「生かす力を信じる行為のダイナミズム」です。

 

科学で証明できない、目に見えないものを信じることは、時に笑われたり、バカにされたりするかもしれません。


でも、この地球上にいるすべての人は、何かしら、目に見えないものを信じています。


音楽や芸術の力もそうです。


現時点で正しいとされている道徳や科学も同じです。



目に見えない力が、生きている私たちを生かす力になっていると、身体が知っているからです。


もちろん、見えないことをいいことに、信じてはいけないものを信じるように言う人もいるでしょう。

でも、それは、本当は身体が知っているはずです。


それは私たちを「生かす力」になるものなのかどうか。




神父様は、命の三原則を教えてくださいました。

「生きている」

「生かされている」

「つながっている」

 

私たちは、いつも自分自身の宣言によって、生きる力と生かす力を統合させているのだと思いました。

 

私はかねてから、インド古代哲学のヴェーダの教えも、キリスト教の教えも、禅宗に基づく茶道の教えも同じだと感じて、こうして時折発信しています。


ここで神父様の教えを読んでいただいて、アーユルヴェーダを知る人も、茶道を知る人も、禅宗の人も「ああ、同じだ。あのことだ。」とお感じになるのではないでしょうか。


どんな宗教を持っていても、神様は私たちの内にいて、私たちは生かされているのです。


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