仏のいる場所は地獄と勘違いする程の

強烈なエネルギーの嵐の渦中にある?

 
それを考えていると気になる過去記事があったので掲載させていただきます
三つの記事をまとめていますのでちょっと長いですよ
 
 

菩薩行ってすごい?

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     こんにちは うぐいすです

 

 

今日は菩薩行のことを 考えてみたいと思いますが

 

頭の悪い私のことなので 難しくは考えられませんので

 

頭脳明晰でない人も 安心してみてくださいね

 

 

もしも・・・ 賢いあなたであっても 突っ込まないで

 

ゆるゆると 聞き流す感じでお付き合いください

 

 

        

 

 

 

 

 

一般的に菩薩といえば観音菩薩や地蔵菩薩などを思い浮かべますが、最高の悟りを獲得しようと願う心を起こした人は、実はみな菩薩なのです。

 

経典には身命までも惜しまず、悟りを求めて勇猛に修行する菩薩の姿が多く描かれています。

 

しかし菩薩にはもう一つ重要な特徴があります。

 

それは、決して自分だけが悟ればよいとは考えず、全ての衆生が悟りを得るまで自分も悟りを得ないと誓を立てるということです。

 

一切衆生と共に悟りを目指し、一人残らず平等に悟りを獲得するまで修行の歩みを続ける—この心構えこそ、菩薩行の根底に流れている精神なのです。

 

 

 

ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ

 

いやはや・・・

 

すっげ~!! って思いませんか~汗

 

自分以外の人達の全員が悟りを開かなければ「私は悟らない!」

 

そ~んなカッコ良い言葉を 人生で一度くらいは言ってみたいものですが

 

とてもじゃないけど そんな心境にはなれそうもありませんよね~あせる

 

 

っていうか ・・・

 

あなたならば なれるかもしれませんが

 

ここは 一般的には そうだろう ・・・

 

という感じで 話を進めたいと思いますので 悪しからず かお

 

 

 

ところが・・・です

 

仏教的には 人の精神世界を十に区切って解釈しているのですが

 

菩薩界は 最上級では無いのです

 

上から二番目なのですね~

 

 

 

 

 

 

地獄 界・餓鬼 界・畜生 界・修羅 界・人界  界・

 

声聞 界・縁覚 界・菩薩 界・ 界に分類され、これら

 

の総称が十界である

 

 

十界の詳しい説明はwikipedia で調べてくださいね

 

ここでは 何故菩薩界は仏界よりも下なのかを考えてみたいと思います

 

 

さっさと成仏してしまって 高い次元にあがってしまって

 

おさまりかえっている仏が最上級なんて・・・むっ

 

 

なんか~ 納得がいかな~いドンッ

 

なんて思っているのは 私だけでしょうか?

 

 

仏教の教義では 仏界の方が意識的には上なのだという事は

 

何となく理解しているつもりだったのですが

 

それ以上に深く考える力量も 若いころは無かったのでしょうね


 

( ´艸`) へ~~ あんたみたいな頭皮でも若い頃って あったんだ~!!

 

o(TωT ) ・・・ちっくしょ~う!! ・・・母ちゃんに言ってやる~汗

 

 

 

こんな私でも若い頃はあったのだとご理解くださいあせる・・・しょぼんトホホ


 

それはそうと ・・・

 

ひとり悟っている仏よりも 周りの人々が悟るまでは

 

自分は悟りの境涯には行かないという誓願をたてた

 

菩薩の方が ずっと ず~っと素晴らしい人格者だと思うのですけど


 

そう思うけども 私にはマネできない事だとは思っています

 

とてもじゃないけど 「人のことよりも自分が大事」ですからね

 

エゴと言われようと 利己主義と批判されようと

 

その信念を変えるつもりはありません


 

( ̄Д ̄;; えっへんビックリマーク



 

 

        むっ そこ~ いばるとこじゃ~無いと思うよ~

 

 

そんな私でも 中学生の頃に国語で習った宮沢賢治の詩は好きでしたね

 

あの有名な 「雨にも負けず 風にも負けず・・・」の最後の部分にある

 

 

日照りの時は涙を流し


寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに わたしはなりたい



 

この詩の部分からは 何の実力も持たない普通の人でありながらも

 

真心から「人の役にたちたい・・・」という心情が感じられて

 

読んだ瞬間には感動のあまり

 

「鳥肌~!!」って感じでした


 

そんな純粋な私も(?) 立派に成人すると現実を受け入れてしまって

 

エゴまっしぐらという感じになってしまっています


 

そんな私でも 今では 仏教を深く学べば やはり仏界が上というのが

 

体験から考えても正しいように思うのですよね


 

なぜ体験からなのかと言うと・・・

 

パニック症という神経からくる病を経験したからでしょうか


 

神経からくる病は 症状の出方には波があって

 

比較的調子の良い時(時期)と 悪い時があって

 

 

周りの人からどんなに上機嫌なようにみえていても 心の奥には

 

常に不安定な部分を影のように感じているのです


 

当時の私も そんな感じで 調子の良い時であれば

 

優しい妻の気遣いに感謝を感じながらも通常の仕事などを

 

こなし日常の生活を過ごせるのですが


 

調子の悪い時・・・

 

ジワジワと心の中から滲み出るような不安感が出て来ようとするのが

 

何となく経験で分かる時があるのです

 

そんな時には じっとしていられない程の不安をごまかそうと

 

家の中であってもうろうろするのです


 

何気ない素振りで隠してはいても 

 

いつも一緒にいる妻には察知されてしまうのでしょう


 

私を気遣いながら そっと傍にきて心配そうに 一言・・・

 

「大丈夫・・・」

 

この言葉を聞いた瞬間に パニックの発作が起こります


 

その瞬間の私の心情は もう最悪でしたね~

 

「あ~~! 俺は最愛の妻にも支えてもらえないのか~汗

 

大げさに聞こえるかも知れませんが

 

「この地球上には 俺を救ってくれるものは誰もいない~!」


 

そう思いましたね

 

なぜ 不安定な精神状況になった時に 妻からの優しい言葉が

 

パニック症の発作の引き金になるのか・・・

 

 

どう考えてみても理解できないので それが余計に

 

人生の先が見えない孤独感と不安を増すことになったのです

 

 

その答えは それからもずっと見つからないままに

 

20年以上を過ごすことになってしまうのですが

 

神社に行って その場に溜まってしまっている重い波動のエネルギーを

 

抜くというエネルギーの仕事をしている内に何となく理解できるように

 

思えたのです

 

 

パニック症のような神経症の大元は 「恐れの感情」が原因になるのですが

 

この感情の奥にあるエネルギーに気づいたのがきっかけでした

 

 

神経的に過敏になっている発作直前の私は 必死になって

 

「恐れのエネルギー」をしまい込もうとして 不安な精神状態を

 

見ないように うろうろと部屋の中を歩き回っている・・・

 

 

 

そんな時に 私の事を想い 心配そうに寄り添ってくる妻の存在は

 

「大丈夫・・・」と言葉で言いながら 「恐れのエネルギー」を

 

私に乗っけてくる役目になってしまっているという事なのです

 

 

 

それが どんなに心優しい行いであってもエネルギーの観点からみれば

 

結果的には 相手に心配という「恐れのエネルギー」を乗っけてしまう

 

そう思っています

 

 

私はパニック症のお蔭で 本当に周りの家族や知人に

 

「安定のエネルギー」届ける事のできる人は 

 

常に安定した精神状態にいる人ではないかと考えるようになりました

 

 

そして その届け方とは エネルギーを送るイメージをするのではなく

 

常時満杯になっている状態からこぼれ落ちるまで維持すること

 

それまでは じっと我慢して「自分の中心を保って」

 

安定のエネルギーを蓄え続けられる人だと思っています

 

 

とても強引な類推かもしれませんが・・・

 

菩薩行は 自分よりも周りの人の悟りを優先しているのですが

 

結果的には 全ての人という幻想に囚われているように思うのです

 

 

この地球上の全ての人が 本当の意味で悟りを求めているのでしょうか?

 

ひょっとすると それこそはた迷惑な善意の押し付けになっていないのか

 

 

こんなふうに考えていくと 先に悟りを開いて

 

周りじゅうに「安定のエネルギー」をこぼしている仏の方が

 

必要としている人に魂レベルでの貢献ができるように思うのです

 

 

 

そんな事を日々考えていると

 

「どんな状況であっても 先ず自分の意識の安定こそが

 

最優先だと思ってしまうのですが それは利己主義なのでしょうか?

 

 

 

日本人の道徳では 利他の生き方がもてはやされているようですが

 

本当の意味での「利他」とは・・・


 

究極の利己 ではないでしょうか?

 

 

 

備前の朝日です