被爆した戸籍たち | blog.正雅堂

被爆した戸籍たち


今日は64回目の長崎原爆忌である。


64年前、母方の祖父は軍に従事して投下後の長崎市内に入市し被爆した。
彼が軍務の名の下に命を削って撮影した写真の一部は後に写真集となり、全国の小中学校に配布された。祖父の家を訪ねる度に、学校の図書館で見たそれと同じものを私に広げ、詳しく説明してくれた記憶が幼心に焼きついている。その写真集は形見として私が受け継いだ。

ページの1枚には、同僚が撮影したものだろうか、矢印書きがされて祖父自身も映っている。


その長崎から昨年、所用があって除籍簿を取り寄せた。

そこには祖父や曽祖父母の名もある。




 私は被爆した祖父から数えれば被爆者3世と言うことになるが、今回長崎より届いた除籍簿の謄本を手にして、ふと不思議な思いに包まれた。

 最も古い人物では嘉永や安政の生まれと書かれた人物がある。これは戦時中の焼失を免れた証である。よくもまあ、原爆にやられずに残ったものだ。


 東京や大阪の市街地にあった戦前の戸籍資料は東京大空襲によって失われてしまい、今に残さない例が多い。それなのに、長崎や広島の戸籍はなぜ残されたのか・・・ちょっと調べてみようと思いたつ。


原爆で失った物は尊い人命のみならず、時代が築いてきた財産も多い。特に市街の中心部で炸裂した広島の被害は甚だしく、芸州浅野42万石の城下町はその姿を石垣のみに変貌させ、その藩政史料も大半が失われた。


 江戸時代を通じて唯一西洋とのつながりを持った長崎の街は、浦上天主堂をはじめ多くが破壊され、失われた。しかしその両被爆地においても、戸籍だけは役所の管理の下、しっかりと疎開努力が行われていたことが分かってきた。


 広島市では、郊外の山陽文徳殿に戸籍の大半を疎開させたとある。それでも被爆に際しては、少なからず被害を受け死者も出ている。戸籍類も爆風で吹き飛ばされて散乱したが、焼失だけは免れたと言う。


長崎市では疎開の処置は行わず、市役所に保管された状態で被爆した。


しかし爆心地から3km離れていたことが幸いし一時は焼失は免れたが、市役所への延焼の危険性が及ぶようになって、やや離れた古川町の銀屋町教会に疎開させた。瓦礫と放射能で壊滅した焼け野原はおそらく車も通れぬ道であっただろう。そこを必死で運びぬいた状況が目に浮かぶ。彼等もまた被爆者であることは間違いなく、命を懸けて市民の記録を守った様子が偲ばれる。


昭和33年には市庁舎が火災に遭っているが、このときにも難を逃れている。


 現在、全国の戸籍資料は正副の2冊が作られ、各市役所のほか地方法務局にも写しが保管されている。といって、多くの地方法務局は県庁所在地に在することが多いので、県庁所在地の自治体にとっては、市街地全域に及ぶような被災に際しては一身同体も同様であるが、戸籍は日本人が生きたことを証明する唯一の記録。しかし、現行法では80年以上を経過した除籍簿は保管の義務がないことから、廃棄作業を行っている自治体もあると言う。これは平成の大合併を機に吸収された町村に多いと聞く。

なんとか永久保管に努めて欲しいものである。


 今述べたように、先人たちが自らの命を懸けて守ってきたものでありながら、期限を定めて破棄されるのにはあまりにも惜しい歴史資料である。