遠祖が没したその場所で | blog.正雅堂

遠祖が没したその場所で

裏千家の家元・今日庵を訪問する前の日の夜。
師匠と主だった社中が千葉から集い、今日庵の裏手に位置する妙顕寺を宿坊とした。宿坊とは、お寺に泊まらせていただくことで、泊まることを参篭という。


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実はこの妙顕寺、森家の歴史にも登場する縁の寺院なのである。


今からおよそ370年前の寛永11年(1634)7月7日、初代津山藩主で森蘭丸の弟に当たる、森忠政公が死去した場所なのである。


寛永11年の夏は、徳川家光が京都へ上洛した年であり、忠政公はその接遇準備として、一足先に京都入りしていたのである。京都に屋敷を持っていなかった忠政公は、妙顕寺を逗留場所として参篭した。国主大名として大勢の供を連れていたこともあり、妙顕寺のような大寺院でないと長期の宿泊はできなかったのだろう。


その将軍の接遇という大役を命じられていた忠政公が妙顕寺で世を去ったのは突然のことであり、その死因は桃による食害と伝えられている。


前日の昼に訪れた商家・大文字屋宗昧の屋敷で食事をとり、その食後の桃が忠政を死に導いたという。その記録は方々の史料に見られるが、その史料の一つ、現場の大文字屋に残された日記によれば、食後まもなくして腹痛が始まり、そのまま宿坊の妙顕寺に立ち戻ったが大便も嘔吐も無く、翌日死去したという。

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普通の食あたりには見られない症状であり、翌日に死するのも尋常ではない。

このため、毒殺説もささやかれたほどだったが、これ以前から体調を崩していたとする資料もある。桃自身に何かが加えられない限り、果たして桃が直接の死因なのかは疑わしいところもある。


 何はともあれ、この晩をその妙顕寺に宿泊させていただけることになった。だが社中の多くは女性で、男性は私と師匠のみ。お寺様のご配慮で、男性方は客殿にある勅使の間に床を設けてくださることとなった。



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典型的な方丈建築と呼ばれるこの建物は、お寺の説明によれば信長が自刃した本能寺と同じ間取りで作られているという。映画やドラマの撮影で本能寺を演出する際には必ず参考にされるとか。妙顕寺は勅願寺院なのでこの部屋を勅使の間と呼んでいるが、本能寺においては信長の寝所であっても不思議ではない。


妙顕寺に参篭した忠政公が、この格式の高い勅使の間を寝所としたかはわからないが、そのような場所で床に就かせていただけたのは何とも有難く光栄なことだった。

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襖には近衛家と同じ牡丹の紋が一面に描かれ、上段の間には立派な書院。この上段の間が今宵の寝所である。

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この晩、NHKの大河では奇しくも本能寺の変を演じていた。師匠とそんな不思議を語り合い、翌朝5時、貫主台下が御親修される朝勤に遅れてはならぬと、日付が変わる前に就寝した。


*****


霊感というものがあるのならば、私は極めて鈍感なタチであり、それでも夢枕に立って下さろうか、と微かな期待も抱いていた。


だが実際は、夢枕どころではなかった。

仕事柄、夜型人間の私は毎朝8時におきるのが死ぬほど辛く、その私に5時起床は苦行以外何者でもなかった。


だが、その5時の朝勤に私が寝坊すれば、横に休む師匠も遅れる。

といって師匠に起されるのは大変情けない。


どちらに転んでも許されないという緊張が、一時間おきに脳を覚まさせ、5時に鳴る目覚まし時計を3秒で止めた。


人間、やればできるものである。


と師匠の方を振り向けば、すでに床でお目覚めの様子。

これを禅語にいうところの「未徹在」なのだろうか。