津山に来ていた助さん
諸国漫遊したとされ、お茶の間の人気時代劇である水戸黄門だが、これが史実ではないことはよく知られている。
夢を崩すようだが、水戸黄門こと徳川光圀が記録に残した生涯で最も遠くに旅をしたのは鎌倉までとされ、とても諸国を漫遊するなどはありえない話であった。
また、黄門とは権中納言という官職名を唐名(とうめい)、すなわち中国の官職名に変換した言葉であり、水戸徳川家では7人の当主が権中納言に叙任されているので、江戸時代を通じて7人の水戸黄門が存在していたことになる。奈良時代に渡来した中国王朝の職制を似せた呼称であり、装飾性が強く正式なものではないが、墓碑や漢詩などに記されてきた。
ちなみに権中納言の官位は武家では紀伊や尾張の徳川家にも存在したので、紀伊黄門とか、尾張黄門という人物もいたことになる。
そんな水戸黄門だが、ちょっとした史実もある。
水戸黄門に登場する佐々木助三郎、すなわち「助さん」がいるが、これは佐々宗淳という水戸藩の学者がモデルとされた。
戦国武将、佐々成政の一族だ。
一時は出家して僧侶になっていたが、仏教に疑問を抱いて還俗し、光圀に気に入られて側近となった。光圀の代表作である大日本史の編纂を命じられていることからも、相当の学識者であったようだ。
じつはその調査の一環で森家時代の津山を訪れていたのである。
この当時、森家の執権は長尾勝明。藩主森長成を補佐し、領内の風土記ともいえる作陽誌を元禄4年(1691)に編纂を行っていた。勝明は皇室への崇敬が深く、隠岐に流される後醍醐天皇を奪還しようとした忠臣・児島高徳の忠義心を讃え、その推定地に貞享5年(1688)に顕彰碑を建てている。
これは尊皇思想が強い大日本史の精神に沿ったものでもあり、宗淳が津山を訪れたのはこの故事を取材するためのものだったと思われる。
最後にもう一つの史実。
水戸黄門を見ていると、いつも決まって45分ごろに印籠が登場するようになっている。高校の担任がよく言っていたものだ。
これを提案したのは、裏千家前家元の鵬雲斎千玄室氏と言われている。
玄室氏は水戸黄門を長年演じた俳優・西村晃氏と戦時中に特攻隊を共にした旧友であり、そんな仲から生まれた話かもしれない。
諸国を漫遊した著名人はフィクションだったが、そのフィクションに一役買ったのは、本物の著名人だったというわけである。
泉下の徳川光圀公も、まさか利休の子孫が自分がモデルの物語に関与していたとは夢にも思わなかっただろう。