千畳敷をめぐる津軽の殿様達① | blog.正雅堂
2009-04-07

千畳敷をめぐる津軽の殿様達①

テーマ:日本史雑学

津軽家ゆかりの千畳敷を眺める。

津軽家とは弘前藩主の家名であり、土地の地名から津軽藩と称することもある。津軽家の元の姓は大浦氏といって南部家の家臣であった。それが秀吉の小田原攻めのとき、大浦為信は主君を差し置いて秀吉に臣従し、秀吉から大名の地位を得てしまい、主君の所領であった津軽地方をも奪って独立してしまった。大浦氏が津軽氏に改姓したのはこのときである。


津軽家の独立には秀吉にとっても南部家の力を削ぐ効果があり、為信自身も大名になれるチャンスであった。以来、江戸期を通じて津軽家と南部家は犬猿の仲となる。両家の家臣や幕閣が奔走し、1年毎の参勤交代を津軽家と南部家で交互にし、両者が江戸に滞在することがないように配慮された。

まさに日本版モンタギュー家とキャピュレット家といったところだ。

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さて、この千畳敷は今回の五能線の旅でもっとも訪れたい場所のひとつであった。
五能線快速「リゾートしらかみ」では一部の便で15分ほど停車して見学ができるようになっているそうだが、不幸にして私の便は左にあらず。徐行運転の中、窓からの景色を眺めるのみに。


今から200年ちょっと昔の江戸後期・寛政4年(1792)に海底から突如として隆起し、緑色の岩肌を持つ平らな空間が出現した。当時の弘前藩主・津軽寧親(やすちか)はこの奇異な姿を面白がり、藩主家専用の避暑地に定めて、藩主が国許にある時は千枚もの畳が持ち込まれて宴が催されたという。
これが千畳敷の由来である。

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近くに残る御仮屋跡は、奉行所の屋敷があった場所だが、藩主逗留中の仮の屋敷として用いられており、寧親自らが筆を執って「無為」館と名付けている。


だがこのような場所で本当に千枚もの畳が敷かれたかは怪しい。しかし、寧親は政務能力も高かった反面、大変風流な人物で浪費も激しかった。京都の紅葉を眺めようと、京都から百種類以上もの楓(かえで)の苗を弘前に運ばせたり、10万石加増を機に幕府へ願い出て弘前城に三層の天守閣を再建したりしている。千畳もの畳を持ち込む大饗宴を行ったというのも考えられなくはない。


だが寧親の派手な行動は、津軽家の石高と家格の上昇を受けた旧主家の南部家から非難を受け、脱藩した南部藩士によって寧親自身の命までもが狙われた相馬大作事件では、無断で参勤交代の経路を変更して幕府に咎められ、ついには隠居に追いやられてしまった。


ちなみに、寧親の母は久留里藩主黒田直純の息女で、私の先祖・森光嶢の妻・美喜とは異母妹でもある。(つづく

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