聖なる三ツ葉葵 | blog.正雅堂

聖なる三ツ葉葵

名古屋での会議が予定より早く終えたため、上司と別れて吾身は一人、徳川美術館を訪ねた。



近年は大河ドラマの影響からか、徳川将軍家展(2004)や大徳川展(2007)といった徳川家に特化した展覧会も多く行われるようになり、こうした甲冑具足や茶道具も、身近なところで見られるようになった。江戸時代なら、我々のような一般庶民が注視することなど、到底許されない品々である。
この時代に生まれた利得に他ならない。


さて、徳川家の美術館であるによって、右を見ても左を向いても葵の御紋ばかりで、美術館を辞した頃には葵紋が当たり前のような気分になっているのだが、江戸時代に葵の御紋を目にすることは大変なことだったという。


今でこそ、日光の参道や、名古屋・和歌山一帯では葵紋を象った御菓子やグッズが土産屋に並んでいるが、これも江戸時代なら大騒ぎであった。 幕府や御三家連枝などの許可なくして葵紋を象ることは、偽造の罪であり、今で言うなら紙幣や公文書の偽造並に罰せられた。いや、侮辱性を帯びてしまうことを考えれば、さらに重いだろう。


将軍家連枝以外の諸大名が葵紋を家紋として用いなかったように、この紋章にはカリスマ性が保たれ、庭園に葵を植えることも憚られたという。だが、これは諸大名が自主的に規制して成り立っていたことであって、法制化されたものではなかった。明文化されたのは、享保8年(1723)・8代将軍吉宗の時代。


それは、葵紋を利用した詐欺事件が起きたことが原因であった。この年、浪人・山名左内が葵の御紋を縫い付けた衣服を着用して悪用する事件が起きた。発覚して逮捕された山名は死罪となり、幕府は葵紋の使用を明文化によって禁止した。


着物の中身は誰であろうと葵の紋の付いた衣服を着た人物には、問答無用で平伏してしまったのがこの時代である。時代劇の水戸黄門のお決まりシーンである葵紋の印籠を前に一同が平伏する姿は決して間違っているものではなく、万事が万事あの調子であったと考えられよう。


ちなみにこの葵の御紋、徳川家康が好んで用いたことが徳川家の家紋となったとされているが、そのデザインの源は本多家の三つ葉葵とする説がある。

 

(左:徳川家・右:本多家)

後に家康が本多忠勝に対して、将軍家と同じ葵紋であるゆえに遠慮するように申し渡したところ、忠勝は「そもそも葵紋は本多家の家紋であり、家康公に差し上げたものである。家康公は新田源氏であるのだから、一つ引両紋を使うべきところ」と答え、家康を唸らせたという。


(一つ引両紋)

また、忠勝が家康に譲ったのは葵の「葉」だけであって、本多家の葵紋にある「幹」は譲っていないという。ゆえに、本多家の家紋は「幹がついた」葵紋として使用が認められてきたのだとか。


このため、葵紋の什物を贈与されることは、大変な名誉と畏敬の念がこめられていた。


久留里森家でも、葵紋を贈与された記録が家譜や伝記史料に見られる。


松平信明から贈られた家康伝来とする葵紋の茶碗、大坂加番中に紀州家から贈られた葵紋の香合、そして将軍家斉から馬術披露の褒美に賜ったという葵紋の鞍、隠居後に再出仕した折には茶器も賜っている。

小藩の家老に過ぎなかった家としては珍しく、主家の久留里藩主黒田家が幕閣の中枢に深く関与していた影響がうかがわれる。


この茶碗は幕末に主家の黒田家へ献上されており、鞍の所在は不明、香合などの茶器はかろうじて現存している。しかしながら、宗家たる津山藩主森家や、本家である三日月藩主森家には、葵紋の遺品がほとんど残されていない。