ご先祖の手紙
これは、播磨国三日月藩、現在で言うところの兵庫県佐用郡にあった1万5千石の小さな藩主であった、森對馬守俊春(もり・つしまのかみ・としはる)の書状。宛名は、幕府老中・酒井雅楽頭(さかい・うたのかみ)とある。
ざっと、今から250年前の手紙だ。
昨年、森家研究の第一人者である某教授の仲介により、当家に里帰りした。俊春公は、当家から見れば本家筋であるゆえ、正確に言えば、里帰りという言葉は馴れ馴れしい言葉かもしれない。
江戸時代の書状には年号を書く習慣が無かったため、しばしば後世の史学者たちを悩ます種となっている。
この書状には正月朔日とあり、朔日は1日をさすので、すなわち元旦の手紙ということになる。しかし、何年の正月かとなると、もはや断定できない。
だが、この手紙には、年代を特定できるいくつかのキーワードが隠されている。
手紙には、「三御所様」という単語がある。
三御所とは通常、次の三人をさす
・大御所と呼ばれる前将軍
・公方様と呼ばれる将軍
・大納言と称される将軍世継
将軍が居て将軍世継が居るのは普通のことだが、将軍の地位を譲った人が存命中というのは、江戸時代260年においては、かなり限られた時代となる。したがって、文章に「三御所様」の文字が見られるのは極めて限られた期間ということになる。
俊春公が藩主であったこの時代は、大御所が吉宗、将軍が家重 、そして大納言に家治。これに酒井雅楽頭が老中を勤めていた時期を重ねると、1746年から1751年の僅か5年間に絞ることができる。
この頃、俊春は20代前半の青年藩主。文中には難しい江戸城中でのしきたりや殿中行事の作法等を、老中や先輩藩主の助けを借りる姿が伝わってくる。
先日、東京国立博物館の庭園で催した茶会に掲げて初公開とした。
俊春公については、当家2代で久留里藩家老・森光仲の臨終に際しては、自らの御典医(藩主の専属医師)を、久留里へ派遣させるなどの記録があり、分家間もない当家との密接な繋がりが感じさせられた人物だった。
そうした人物の書簡が我が家に到来したことは、誠に不思議な縁を感じさせる。