ご先祖様、大阪城で怒る。 | blog.正雅堂

ご先祖様、大阪城で怒る。

大阪のオフィスから程近い場所に、大坂城京橋口がある。偶然にもこの京橋口は、私の先祖に面白い逸話が残っている。

(京橋口付近から大阪城を見る)

先祖といっても、そんな遠くは無い。

祖父の祖父の曽祖父・・・・いや、
曽祖父のまた曽祖父の父・・・・・。
短く表せば高祖父の曽祖父。

うーん、やっぱり遠い先祖に入るかもしれない。

その彼の名は森光福。通称を清太夫といい、上総久留里藩の家老であった。
父が早世したため、26歳で国家老(=副知事クラス)に抜擢された人物で、天保11年(1840)幕府のから大坂城の加番(大阪城代の補佐)を命じられた久留里藩主・黒田豊前守直静に従って千葉から大阪に出てきていた。これは、そのときの逸話である。

その前に、大坂城加番という役目について書いてみよう。

 久留里藩主の黒田家は、徳川綱吉の寵臣黒田直邦を祖とする譜代大名家であった。そのため幕府の重役を担うことが多く、大坂城加番もその重要な任務の一つとされていた。
豊臣家が滅びた後の大坂城は幕府直轄の城として管理され、強いて言うならば大坂城主は将軍ということになる。だが、まさか将軍が常駐するわけには行かないので、城代が置かれることになる。城代だけでは守備に足りないので、補佐役として2人の大名を定番に付けた。これらをさらに補佐する役目として、2組による大番役と4人の大名による加番があった。城代と定番は定置として、同じ大名が勤め続けたが、大番と加番は1年交代。久留里藩が勤めたのはこの加番という役目だった。

 いずれも幕府の要職とされて、有力な外様大名が勤めることは無かった。
加番役は大坂城におけるナンバー4か5くらいの立場になるが、幕府から補助金(出張旅費)が出る。固定給ともいえる領内からの収入とは別の特別収入があり、大変実入りの良い御役でもあった。その御役を歴代の久留里藩主は必ず1度勤めている。これは幕府から信用が高かく、幕閣でも力があったことを意味する。

(現在の山里丸)

そして、久留里藩が大坂城において担当させられたのは天守閣に近い山里丸。豊臣秀頼と淀君が徳川軍に囲まれて自害したあの場所である。山里丸の担当は4人の加番役でも筆頭加番が勤める在所だった。


(大阪城山里丸と極楽橋。職場の窓景より)

さて、この加番役で黒田直静に随行してきた光福はある日、家臣の杉木新兵衛を従えて山里丸を出て、極楽橋を渡って京橋口から城外へと外出した。しかしついつい帰りが遅くなって、暮六つ(午後6時頃)ギリギリになって京橋口へ戻ると、門番の役人たちが、

「まもなく締まります、急いでください!!」

と城中へと戻る人々に声をかけ始めていた。
その様子は、遅刻ギリギリに校門をくぐる生徒を連想する。

(大坂城京橋口)

 多くの人が城へ戻ろうと急いでるところ、光福はのんびりとしている。新兵衛もこれにはハラハラして、時代劇風に言えば・・・
「ご家老、刻限が迫っておりますゆえ、急ぎましょう」
と、こんな感じで、光福を急かしはじめた。
すると、イライラときた光福は、

「うるさい!俺は黒田豊前守の家老だ!締め出せるものなら締め出してみろ!」

と遠くの門番に聞こえるように怒鳴りつけた。
これは生徒会長か、または番長か。

これに驚いた門番、扉を閉めることなく、刻限を過ぎても悠々と歩いている光福をやり過ごし、新兵衛を従えた光福はいくつもの城門を通過し、マイペースで場内の在所の山里丸へと帰ってきた。
ちなみにこの門番を務めていたのは定番役の大名家。久留里藩が勤めた加番役から見れば上役であった。

これを聞いた藩士たちはさすがは一国の家老、と口々に光福を褒めたというが、このとき光福は35歳。私と大して変わらない歳なのである。ちなみに藩主の黒田直静はこのとき30歳だった。森光福は一小藩の家老ではあるが、その祖をたどれば国主大名家であった美作津山藩主森家(元禄10年改易)である。そのプライドが物を言ったのか、年下の藩主の後見役という責任感が人格形成してこのように言い放ったのか。

 この逸話は光福の孫(祖父の祖父の伯父)によって書かれた書物であり、肉親が書けば悪い表現はしないだろう。私だって祖父のことを悪く書こうとは思わない。
要するに、いわゆる客観的な視点からかかれたものではないのであって、これを堂々としていると賞するべきか、果てまた横暴だ我侭だと評するかは両論あるものと心得るのだが。。。。

(大坂城の極楽橋)

それにしても奇遇なことである。170年を経た今、彼の子孫である私は同じ京橋口に近い場所に公務の役目を得て、遠い江戸から派遣されてきている。新幹線や飛行機という文明の利器があるによって、私は往復させていただいているも、窓から眺める極楽橋や山里丸、そして京橋口に、遠い先祖の面影を思い浮かべるのであった。