打ち首にされた殿様
打ち首---。
それは勿論死刑を意味するものであり、江戸時代に行われていた代表的な処刑法である。だが、武家の場合は打ち首ではなく切腹、つまりハラキリが処刑法であった。
後ろ手に縛られ一方的に斬首される打ち首に対し、切腹は自ら腹に刀を刺す事で自害をさせてから斬首する。
戦の無い平和な時代が続いた後年になると当人が刀を躊躇してか、扇子で代用し、腹に突き立てる真似だけさせて斬首という作法もあったようではあるが、いずれにしてもハラキリは被処刑者に敬意を払った処刑法なのである。自害させる事によって武士としてのプライドを保たせたのだ。
したがって、当然ながら殿様が死罪となる場合はハラキリである。
幕府の役務中に刃傷を起こした内藤忠勝や、江戸城中で刃傷に及んだ浅野内匠頭もそうだった。
ところが、江戸幕府260余年でただ1人、打ち首にされた殿様が居いた。
それも370年前の今日、森家の江戸屋敷でである。
それは、肥前島原4万石の藩主・松倉勝家。
島原と聞いてハッとくる人もいるであろうが、島原の乱を起こした張本人といえる人物だ。寛永15年(1638年)7月19日、彼は津山藩主森家の江戸藩邸下屋敷(芝屋敷)において「斬首」の刑に処せられたのである。
勝家は島原の領民に対して悪政を布き、年貢の納められない貧困した領民を捕らえては収容施設に拉致監禁させた。その中には女子供も含まれていたという。
これに耐えかねた領民が蜂起したのが、日本最大の一揆・島原の乱であった。
----この情景、現代の某国にも起こりそうな話でもある。
領民の反乱はすぐさま江戸の幕府にも知れ渡り、江戸に在府していた森長継公も急ぎ帰国して兵を差し向けるよう指示を受け、幕府では御書院番頭であった板倉重昌を上使として派遣し、沈静化を図ろうとした。
しかし上手く行かず、慌てた幕府は、智恵伊豆と呼ばれた筆頭老中・松平信綱を2人目の上使に仕立てて派遣し、ようやく沈静化を見た。
しかし、幕府の最高責任者である筆頭老中の派遣で、功を成さずに責任を問われると感じた板倉は、強引に兵を進めた結果討ち死にした。
将軍の名代でもある幕府の上使をも戦死させ、戦国時代を髣髴とさせたこの戦のあと、幕府は松倉の所領を没収して改易し、その身柄は津山藩主森長継に預けられた。小倉藩の護送を受けながら津山に到着した松倉を森家では津山藩重臣・湯川次兵衛の屋敷に監禁し、幕府の指示を待つ事となった。
戦後の評定でも勝家は悪政を布いたことを否定し、キリシタンによる反乱を主張し続けたが、その後松倉家の邸宅から折檻された農民の遺体が発見されると容疑は定まり、寛永15年(1638年)5月、幕府は正式に松倉を江戸に召喚して評定を重ねた結果、死罪と決して7月19日、森家の江戸屋敷で斬首に処せられた。その遺骸は松倉家の家臣に引き取られ、東京タワーの前にある芝の金地院に葬られた。
松倉は、島原から津山を経て江戸に到るまで、権兵衛と瀬兵衛という2人の小姓を身の回りの世話役として連れてきていたが、権兵衛は松倉家に代々使えた家という事で、松倉の処刑された翌日に斬首されている。瀬兵衛は新参者という事で流罪になった。
そして、幕府は表向きを松倉の失政とはせず、キリシタンによる反乱と結論づけた。松倉の失政と認めることは、幕府が松倉を選任したこと自体を失政としてしまうからである。
これが江戸時代における唯一の大名の打ち首である。
ちなみに蛇足ながら、芝の金地院の隣には瑠璃光寺という寺院があった。森家の菩提寺であり、松倉を預かった森長継公の墓所もあった。同寺には現在森家の墓所は存在しないが、江戸は広しと言えども奇遇な事である。