日比谷公園の烏帽子石
合同庁舎での打合せを終え、一人になったところで久々に立ち寄りたいところがあった。
それは日比谷公園。
日比谷公会堂近くの交番裏に、森家の史跡がある。
それは烏帽子岩という、巨大な石。
人工的に切り出されたその形は、綺麗な切り口をしているのだが、その形が烏帽子に似ていることからこの名がついた。
元は市ヶ谷駅近くにあった市ヶ谷門の石垣の一部であったが、明治時代に門が取り壊されると、この石だけは形が面白い為、日比谷公園に運ばれてきた。おそらく当時から烏帽子岩と呼ばれて親しまれていたのだろう。
話はさかのぼり、約360年前の江戸時代初期、津山藩2代藩主森長継は幕府から江戸城普請を命ぜられた。外様大名は公共事業と称して江戸城や名古屋城といった徳川一門の城を修築させたり、橋を造らされたりした。これには莫大な出費を要するもので、外様大名の蓄財による軍事力強大を恐れた幕府が生み出した秘策である。
長継が命ぜられたのは、江戸城の外堀を守る市ヶ谷門の造営だった。つまりこの烏帽子岩を生み出した本人ということになる。
市ヶ谷見附については以前にも書いたが 、寛永13年(1636)に造られた。神田川の堀沿いに並ぶ桜が美しかったことから、桜の御門と呼ばれて親しまれたという。
見附の御門には規則があり、暮六つ時 (現在の午後6時~7時頃)になると門が閉められ、明け六つ時 (午前6時~7時頃)までは門の出入りができなかった。江戸市中の治安を維持する最たるものといえよう。これぞまさしく「門限」である。
ただし、例外があり、門外の親戚や肉親が急病や危篤に際しては、温情的に門を開いたという。この例外を良いことに偽って門の出入りをして罰せられた例もあるようだ。
江戸の市民を悩ませ、同時に守る役割を果した市ヶ谷見附の御門は、明治4年の道路拡張で解体され、今では一部の石垣だけが残されており、これらに残された刻印は森家の普請の痕跡をうかがい知ることができる。
一部分ではあるも、まるで博物館の屋外展示のように史跡として残されている。
工費のほぼ全額を負担させられ、膨大な資材を投入して建造した津山藩としても、永世の史跡として今に残されようとは、当時誰が思っていたであろうか。