森長俊の三重塔~宇治・三室戸寺
宇治に来たら、必ず訪ねたいと思っていた場所があった。
それは三室戸寺という、西国10番の古刹。
特に森家に所縁のある寺というわけではないのだが、森家の史蹟がここにはある。
播磨三日月藩の初代藩主・森長俊公が建立した三重の塔である。
その史蹟を語る前に。
私の直系筋にあたる先祖に、森對馬守長俊公という大名が居た。
津山藩主森長継の3男で、父譲りの信心深い男だったと伝えられている。
津山藩は大きな藩であったが、長俊は3男ゆえに家督を受け継ぐことはなく、領内から1万5千石を分知されて分家独立した。
後に津山藩が改易となると、その領地は幕府によって播磨三日月に移され、長俊はここに新たな森家の菩提寺を求めた。
だが、寺というものは自ら建立すると莫大な資金が要る。だが、開基者として未来永劫名を残し、寺がある限り崇拝される。津山のような18万石もの大名ならば簡単な事業だが、1万5千石の財力ではかなり厳しいものがあった。
そこで、三日月に古くからある古刹を選んだ。それが高蔵寺という真言宗の寺だった。
地元の崇拝篤く、ここに大名家である森家が間借りするような形で檀家の仲間入りをした。
通常、大名家の菩提寺となると百姓農民は勿論のこと、藩士でさえもそこの檀家となることはできなかった。他藩では、新たにやってきた殿様が寺を菩提寺としたために、追い出された檀家衆も居たほどだ。そのためにも、大抵は大名家が自ら寺院を建立する例が多かった。
だがこれは、後に述べるように明治維新後の藩主寺が衰退した原因ともなった。
だが、長俊公はその手段を取らず、従来の檀家衆を残したまま自らも檀家となり、農村の一寺院に過ぎなかった高蔵寺に次々と色々な建築物を寄進した。 そのとき建てられたのが三重塔だった。
そして明治維新。
明治新政府の意向によって、全国の諸大名は東京に定住を義務付けられ、多くの大名が領地を去った。
すると檀家を持たず、藩主家からの扶持だけが唯一の収入源であった藩主寺は資金難となり、財産を放出したり新たな檀家探しを始めたりした。
高名な殿様の寺は、その由緒を武器に多くの檀家を集められたが、住持の保守意識が強かったり、あまり知られていない殿様の寺などは廃寺に追い込まれていった。 高蔵寺の場合は森家が去っても長俊公以来の意向で古くからの檀家が居たので、その難は逃れたようだが、それでもしばらくすると資金難が生じたようで、廃仏毀釈の波も手伝って、明治の末期になると寺の財産を売却し始めた。
長俊公が建てられた三重塔もその売却財産となり、購入した先が、宇治の三室戸寺だったのである。三室戸寺では、この塔を解体して宇治へ運び、境内の高台にある本堂の横に移築した。
その前に立つと意外に小さく、塔の扉も高さ1メートルほどの可愛いもの。
入るとすれば、相当腰を曲げないと入れないだろう。同寺では内部を非公開としているが、三室戸寺に限らず、何処の寺院も五重塔や三重塔の内部を公開している例は少ない。 八坂の塔は拝観できるようだが、これを除くとほとんど皆無に近いのではないだろうか。
塔の前に座って上を見上げていると、300年前にこれを建てた長俊公もこうして見上げていたのかなと想いを馳せる。
軒瓦や釘隠しも拝見するが、鶴丸紋や五三桐は使われていない。 もっとも高蔵寺自体、森家の家紋を寺紋とはしていないので、それは自然なことであるが、日光や上野の東照宮にみる葵紋の散りばめられた五重塔を想像していただけに、少しがっかり。
現在、三室戸寺は花の寺として知られており、特に紫陽花や桜のシーズンは観光客で溢れかえっているという。
諸般の事情によって宇治の地に移築された三重塔であるが、その譲渡によって高蔵寺が現在に伝え残され、三重塔はこうして参拝客の目を喜ばせ、街のシンボルとして役立っているのならば、建立者の長俊公も泉下で深くうなずいて居られよう。