フランスの古文献に現れた森忠政
森家のある研究家から、フランスの古文献に美作国主・森忠政公に関する記述があることを知らされ、この数日ほど資料のリサーチをしていた。
約200年前のフランスにレオン・パジェス(PAGÉS, Leon)という日本史研究家がいた。日本との国交を持たないフランスでも、漆器や伊万里焼といった日本の製品はことのほか大人気であり、マリーアントワネットもヴェルサイユ宮殿の一室に日本漆器を並べた専用室を造っていたほど。その遺品のいくつかは特別展の折に日本に里帰りしたりしている。
しかし、日本の製品には人気があったが、その国について研究した人物は少なかった。パジェスはその一人である。1814年生まれというから、マリーアントワネットが断頭台から消え去って20年近く経ったあとの人物ということになる。
彼は唯一日本との国交国であったオランダや、中国から伝播した資料を取り寄せ、日本の文化や宗教史について調べ上げ、1870年にHistoire de la religion cherétienne au Japon を出版した。 慶長3年(1598)から慶安4年(1651)までにおける日本のキリスト教史(その多くは迫害の歴史)をまとめている。また、パジェスはヨーロッパで日本に関する文献を始めて出版した人物としても知られる。・・・それでも1858年という日本では幕末の話だ。
日本では豊臣秀吉の時代から、徳川家康・秀忠・家光の時代。フランスならばアンリ4世からルイ13世・ルイ14世の治世である。森家で言うならば森忠政・長継の治世。パジェスはこの時代の中で、美作国主である森忠政のキリスト教に対する態度を写実している。書物によると、元和10年(1625)年のことだという。
先述のHistoire …は昭和13年(1938)にキリスト教史の研究家・吉田小五郎によって翻訳され、「日本切支丹宗門史」と和題された。
その資料から和訳されたものを引用すれば、次の通り。
「美作の領主は、領内にキリシタンはをらぬと政庁に報告させ、目を閉じた。彼の城下の近くに、或る美しい墓地があって、キリシタンはそこに行っては、祈祷を捧げてゐたが、その中央に高さ十五パルムの素晴しい十字架を立てた。之は『汝はもろもろの仇の中に王となるべし』Dominare in medio inimiocrum tuorumといふ、詩篇の言葉を実現するためのやうであった」
この元和10年における美作の領主とは森忠政公を示しており、日本史を紐解けばこれは明らかである。政庁とは幕府。そして城下とは、美作津山城であることも類推解釈できる。当時幕府では切支丹(キリスト教)を絶対禁止していたため、諸大名に対して領内にそのような人物がいないように注意勧告を出していた。諸大名は自国の領内を精査して幕府に報告する。忠政公もそれに従った形となる。
しかし文献によると、忠政公は領内に切支丹はいないと報告させ、自国内の切支丹を黙認していたという意味になる。
しかし、切支丹達は城下にあるキリスト教墓地に盛んに詣でており、十字架を立てているというではないか。
上記のラテン語は詩篇の言葉であり、109:2(110)に書かれている。
Virgam virtutis tuae
Emitet Dominus ex Sion,
Dominare in medio inimicorum tuorum.
Tecum principium in die virtutis tuae,
in splendoribus sanctorum:
Ex utero ante luciferum genui te
イスラエルの王に向けられた詩であり、この部分を約せば
神はあなたの力の杖を
シオンからつかわされた。
治めてください、諸々の敵の中にあっても。
あなたは王となった、力強き日に、
聖なる輝きのうちに。
暁の明星に先立って私はあなたを生んだ。
となる。吉田氏の訳とは少し違うようだが、大意としては同じである。
日本全国で切支丹と呼ばれて迫害されたキリスト教信者はこの忠政の温情に感謝し、忠政をイスラエルの王になぞらえてこの詩篇を引用したのだろう。ちなみに十五パルムの単位「パルム」(palm)は親指を除いた4指の幅をさすメソポタミア時代の計測法。
私の指でたとえるならば1パルム=8センチとなり、15パルムは120センチだ。
ドラえもんの身長ほどもある大きな十字架を城下の墓地に立てるというのは、幕府の偵察も多かったこの時代ではかなり大胆な行動かもしれない。 しかし、忠政公はそれを黙認したというのだから大した度量の持ち主であると考えるべきだろう。
ちなみに引用された詩篇はヴェルディやヘンデルもこの詩を元に宗教曲を作っている。オルガンを学んでいると、色々なCDを持つようになり、そのなかにこんなCDを見つけた。
これはロンドンのセントポール教会(チャールズ皇太子&ダイアナ元妃の結婚式を挙げた教会)で奏でられた詩篇だが、ひょっとすると、津山の城下でもこのような旋律がひっそりと流れていたのかもしれない。
そして、フランス有数の「日本マニア」・パジェスは、幕末のパリへやってきた日本遣欧使節(団長は慶喜の弟・徳川昭武)の案内役に立候補したが、ライバルに奪われ、失意のうちにこの文献を書き上げたという。案内役にはならなかったが、おそらく幕末の日本人を見た数少ないフランス人だっただろう。