津山の月
日本舞踊の清元に「津山の月」という演目がある。
実はこの演目、森家に関係のある話なのだ。
清元とは清元節のことで、江戸浄瑠璃の一派。文化11年(1814)に清元延寿太夫が富本節から独立して創始したのが始まり。軽妙洒脱で粋な曲調が清元の特徴なのだが、この「津山の月」の舞台となるのは17世紀初頭の慶長年間のお話なので、遠く離れた後世に作られたことになる。しかしながら衣装は元禄調の華やかなもので・・・・まあ舞踊の世界に細かい時代考証を指摘するのは無粋というものなのかもしれない。
登場人物は、名古屋山三と出雲阿国(いずものおくに)。
実在の人物であり、森家先代実録を始め、津山関係の史料には名護屋山三郎とあり、津山に着てからは名護屋九右衛門と改めたが、ここでは山三郎で統一しよう。
一方出雲阿国は歌舞伎の始祖として知られており、この2名は共に相思相愛の仲だったといわれる。
名護屋氏は信長の縁戚といわれる家で、山三郎の父・名護屋因幡守は信長の弟、信兼に仕えていた。
信兼は伊勢上野城主であったため、一家も伊勢に暮らしていた。だが、信兼が死去し、さらに父の因幡守も伊勢で死ぬと、山三郎は秀吉を頼り、母の養雲院と妹をつれて京都に居を移す。出雲阿国と出逢ったのはこの頃だと思われる。やがて妹は森忠政公に嫁ぐ。ここに名古屋家と森家は縁戚関係となる。
山三郎自身は槍術を得意とし、その特技もって、蒲生氏郷に気に入られて仕えたこともあった。しかし氏郷の死によって後ろ盾を亡くすと蒲生家を退去し、新たに主家を探し始める。そこで見つけた仕官先が妹の嫁ぎ先・津山藩主森家だったのだ。今で言うなら、「コネ」入社だ。
だが、山三郎は相当の美男子だったらしい。常に女性の話題には事欠かなかったようで、さらに喧嘩早い性格も持ち合わせていた。些細な喧嘩を理由に出家して大徳寺に入り、宗円と改めてみたり、蒲生家を早々に退去したのも、そういう性格からきているものなのかもしれない。
ここだけ見ると、いわゆる「カブキ者」のようにも見える。
とにかく、こうして津山藩にやってきた名護屋山三郎であるが、津山にやってきてまもなく一人の女性が彼を追って京都からやってきた。これが出雲阿国である。 清元の「津山の月」もここからストーリーが始まる。
月の光が照らす夜の津山で2人は感動的な再会を果たす。そして、阿国は山三郎との馴れ初めを艶やかに語り、やがて歌舞伎踊を創始した頃を懐かしみながら共に花笠踊りをする。「津山の月」はこの恋にあふれるラブロマンスの部分だけを取り上げた演目となっているが、実在の山三郎はこの後壮絶な末路を遂げるのである。
妹の縁をたどって津山にやってきた山三郎。何しろ妹は津山藩主の妻である。
津山藩に仕官したとはいえ、高禄で迎え入れられ、藩主一族の待遇で津山にやってきたのである。
自然に大柄な振る舞いとなり、古参の家臣たちから反感を買うようになってしまう。
古参の家臣といえば、藩主忠政の先代から仕えている重臣も居る。たとえば忠政の兄・長可に仕えていた井戸宇右衛門などは、家老職という重臣の立場にありながら、新参者に過ぎない山三郎の大柄な態度を常々腹立たしく感じていた。
2人は事あるごとに言い争い、山三郎は宇右衛門の武功を嘲笑し、宇右衛門は山三郎自慢の刀を貶した。
その不仲が次第にエスカレートし、ついに藩主の忠政をもそのトラブルに巻き込むのである。
やがて山三郎は義弟の忠政に進言し、宇右衛門を討つように懇願する。津山を領して日の浅い忠政は、これを機に頑固者の古参家臣を排除しようと考えていたので、山三郎の言を受け入れ、山三郎に「かんな切り」の刀を授けて、宇右衛門を討つ命を下した。
しばらくしてその知らせは築城現場である院庄で陣頭指揮を執る宇右衛門の耳にも届いた。
だが、自分を討つという忠政の命令にも宇右衛門は怖気いらなかった。何しろ彼には忠政の兄や父の代から仕えているという自負があった。彼としてはこれを機に、新参者・山三郎を斬捨てて、さらには奸臣(かんしん=悪い家臣)の言を受け入れた忠政を叱責しようと考えていた。 そこで宇右衛門は2人の弟を呼び出した。しかし、やってきたのは甚三郎だけ。もう一人の惣十郎は釣りに出ていた。だが、この宇右衛門と甚三郎の二人は、自分に差し向けられた山三郎の刺客を見事に斬捨て、さらに山三郎をも一刀両断にしてしまった。
しかし、多勢に無勢。宇右衛門と甚三郎は山三郎の残党によって、返り討ちされてしまい、不仲の両名は同所で刺し違えの死を遂げたのである。
宇右衛門暗殺の失敗を聞いた忠政は、自分が許した重臣暗殺の命に後悔するも、藩主への謀反を起こさせないようにと、宇右衛門のもう一人の弟・惣十郎に刺客を向け、釣り場にいた惣十郎を暗殺した。
ここに宇右衛門の3兄弟は哀れにも皆斬殺された。
忠政にとってはこれで謀反の種はすべて消えたのだが、さらに大切な重臣を失うことになる。
死んだ宇右衛門の妻の兄には、林長兵衛為忠という重臣がいた。この林為忠は、忠政の母の兄、すなわち伯父である。 事件当時、為忠は忠政が津山に移る前の領地・信濃の川中島で、森家から他家へ領地を引き継がせる手続きを担当していた。その任務も無事に終え、荷物をまとめて津山へ向かう船の中にいた。
そこへこの凶報を知り、甥のあまりにも愚かな失策を嘆いた。 義理の弟・宇右衛門の仇を討とうにも、山三郎は討ち果たされている。といって、甥であり、主君でもある忠政を討つ訳にも行かないし、黙って見過ごすのも武士のプライドが許さない。
為忠は悩み悩んだ挙句、船の到着地で森家の家財道具や書類をすべて荷降ろしさせたあと、引き続きその船で広島に向かった。つまり、長年仕えた森家を退去することを決意したのだ。
当時広島を領していたのは福島正則。福島家に仕官することで、為忠は忠政に対する反抗となり、また自分の失策によって、伯父が自分の許を離れたのをよく理解していた忠政も為忠を追ったり訴追することもしなかった。 そして福島正則は彼を高禄で厚遇したが、まもなくして広島藩は改易となり、正則自身も信州の小さな領国(偶然にも忠政がいた川中島)に移されてしまうと、為忠は姫路藩主本多家に仕えた。
俄かに話を戻して、この事件後、道を挟んで殺害現場の北側には山三郎を、南側には宇右衛門兄弟の遺骸が埋められた。そしていつしかそこには2本の松が植えられ、地元ではこれを「睨み合いの松」と呼んでいる。
区画整理の関係で、今は若干ずれた場所に移設されているが、津山の地には今日も2本の松が互いを睨み合っている。
ちなみに出雲阿国と名古屋山三郎は、共に並ぶ形で大徳寺に供養墓が建てられている。
これは私の想像だが、この供養墓は山三郎が大徳寺で出家していたときに建てたものかも知れない。
「逆修塔」といって、生前に自分の墓を立てる習慣があったからだ。
領国の津山では、今でも忠政公を名君として崇められているが、弘法も筆の誤りとはまさにこのことで、山三郎の言を受け入れて宇右衛門誅殺を命じたのは、忠政公唯一の失政といえよう。
忠政公は自身の兄弟をすべて討死させており、家族といえば幾名かの姉と叔父の森可政だけという身の上だった。その中で、母の兄である林為忠に去られたショックはさぞかし大きかったに違いない。
そして皮肉にも名護屋山三郎は「名古屋山三」として舞踊の演目に登場し、美男子と褒め称えられた上に、出雲阿国と共によく知られた存在として今日も生きている。
泉下の井戸宇右衛門は悔しいに違いない。