森長俊公忌
我が家の過去台帳を眺めていると、今月は祥月命日の先祖が多い。
6月2日には本能寺の変で遠祖森蘭丸や坊丸、力丸の3兄弟が、そして今日4日は正雅堂家の直系先祖である、三日月藩初代藩主・森対馬守長俊公の御命日。この後6月10日に当家5代の森光厚、翌11日には6代森光福と続く。当主だけでも3人、これにそれぞれの夫人や子女を含めたら大変な数となろう。
今から遡る事270年前の享保20年(1735)6月4日、東京・大崎にある三日月藩江戸屋敷にて、森長俊公は静かに息を引き取った。享年87歳。
法名は長俊院殿快翁日好大居士。
87歳という、江戸時代中期におけるこの年齢は驚異的な高齢であり、死因はおそらく老衰なのだろう。ちなみにその後の正雅堂家で公の年齢を超えた人物は私の曽祖父で94歳がただ一人。
生まれは津山。 津山藩主森長継公の3男として津山城に生まれた。母は側室の湯浅氏。幼少の頃から聡明で、家臣からの評判も高く、結婚適齢期になると、他の大名家から養子縁組の話が殺到したという。
そんな中、父長継の弟、関長政が死去。長継は、先代藩主森忠政の外孫に当たる人物で、実家の姓は関氏といい、森家の家臣だった。そのため長継が森家を継いだとき、実弟の関長政には森家の領地から1万8千石を与え、森家の支藩として独立させた。 だがその長政には子供がいなかった。そこで兄の長継は自分の子供の中から長政の跡取りを出そうとしたのだが、長男の忠継は大切な森家の跡取り、次男長武は武骨者で向かない、すると3男の長俊にお鉢が回ってくるはずなのだが、何故か長継は4男の長治に関家を継がせた。
(ちなみに長継には5男・長基、6男・兵吉、7男・長直、8男・衆利と、男子だけでも8人の子がいた)
なぜ長俊を差し置いてそのようなことになったのかはわからないが、当時他家への養子縁組の話が進行していたのか、もしくは、長継の頭の中では、森家の中で独立させて森家に留めておきたいという願いがあったのかもしれない。 長治が関家の跡取りとなって1万8千石を相続した後、長俊に対しても1万5千石が分地されて、森家の支藩となっている。
その長俊であるが、この1万5千石を分地されるとき、兄で津山藩主の森長武はこれを渋る。何度もの押し問答の末、先代藩主長継の一喝によって仕方なく長武も分地を許した。
しかもそれは弟の関長治より3千石少ない1万5千石だった。 だが、長武の推挙によって分地を認められ、大名に取り立ててもらったことを長俊は大いに喜び、拝領した日である18日を記念日として毎月、兄の居所を訪ねたという。 それは兄が隠居した後も続けられ、その義理堅さに長武は感激し、長武の寵臣、横山刑部に「これほど律儀な弟だと判っていれば、5万石は進呈していたのに」とぼやいたのだとか。
当時長武は甥の藩主・長成との確執によって藩政から遠ざけられ、孤立無援の状態になっていただけに、弟の義理堅さには特に感激したのかもしれない。
また、長俊は無類の動物好きでもあった。当時は犬公方と言われた将軍綱吉の治世で、多くの大名家で動物を飼う習慣があったが、それに劣らず多くの動物を飼っていたという。そしてエピソードもいくつか残っている。
あるとき、参勤交代で江戸に上るとき、自分の籠の後ろに狆(ちん=小型の座敷犬)を乗せた籠を引き連れていた。ところが、飼育担当の侍がこれを逃がしてしまう。青ざめた長俊と家臣。行列をとめて、家臣を総動員して周囲を探索して見つけ出し、長俊の機嫌が治った、というエピソードがある。
勿論ペットに対する愛情もあるのだろうが、生類憐みの令がまかり通っている時だったとすれば、逃げ出したペットを発見できずにいることは、大きな罪として処罰されたに違いない。
そうなれば愛情どころか、一国の運命をも左右する事態になってしまう。
又あるとき、長俊のお気に入りの大鷹が、雁を仕留めたことがあった。大鷹を預かっていた鷹匠が誇らしげに長俊に言上するが、長俊たちまち不機嫌となり、奥の部屋へ入ってしまったという。
だがしばらくして鷹匠を呼び寄せ、「雁は羽ばたかせる力が強く、鷹を一撃で負かしてしまうことがある。これに仕向けるのは鷹ではなく、隼であるべきだ。幸いにしてあの大鷹が雁を仕留めることができたから良いものの、今回はそなたの手柄にはならない」と。
これは長俊が鷹狩りに精通していたことをよくあらわしているエピソードであるが、鷹匠に叱責しているところなどは、動物に対する愛情を感じさせられるものがあり、単に将軍綱吉に配慮した動物愛護とは異なるようだ。
話はさかのぼるが、元禄10年8月2日、長俊の実家である津山藩は無嗣断絶となり、天下の御大法によって幕府に没収される旨が決定した。津山藩の支藩を統治していた長俊は、同じく支藩主の弟、関長治と共に、このとき津山にいた。 藩の最高責任者が不在の今、領国の津山で実権を握るべく立場にあるのはこの2人だった。 藩士の中では、篭城決戦を求める声も多かったという。藩が無くなれば、彼らはリストラであり、他藩に仕官先を見つけなくてはならない。だが18万石という大きな藩におけるリストラは、そう簡単に新職を見つけることはできないだろう。そうして自暴自棄になった藩士たちがこうした強行策を打ち出していたのだ。
だが、ほどなくして江戸の父・長継から連絡が届く。それは次のようなものだった。
・支藩については国替えにはなるが、同じ石高で安堵してくれる。
・藩士については御救済の米を幕府から支給していただく。
そして、幕府の指示に従うようにと。
これを受けて、長俊と長治は城を退去し、菩提寺の本源寺に入って幕府に恭順の意向を示し、10月18日、津山から船で川を下って江戸へ向かい、長俊は同石高の1万5千石で播磨三日月に、長治は備中新見に1万8千石を新たに拝領した。
このときの津山藩改易の理由は4代藩主の森長成が若くして病死し、その跡取りとして長成の叔父で、長俊の末弟・衆利が指名されたものの、参勤途中の桑名で発狂して御家断絶となったことにある。衆利自身も性格的にキレやすい傾向があったらしい。似たようなところでは刃傷事件を起こした浅野内匠頭もそうだったといわれる。
歴史を語る上で「たら、れば」は禁句であるが、それに付けても後世から見た歴史とは非常に面白いもので、もし、先述の長武が長俊への分地を拒み続けて、独立できずに森家に残っていたならば、間違いなく末弟の衆利よりも先に家督継承権が与えられて、長俊が18万石の家督を継いでいたことだろう。 それを思えば長武が分地を認めたとき、長俊はこれを大変喜んだというが、果たしてそれは本当に喜ぶべきことだったのか。 諸々の史料に、大藩の藩主も務まるという評が残された森長俊公。その評を満額で受け取るのならば、間違いなく彼は立派に5代藩主を勤め上げたであろう。 衆利を跡継ぎに選定したことはもちろんだが、長俊に対するわずか1万5千石の分地も、森家の落日を迎える原因だったとも言える。
長俊の亡き後、三日月藩3代藩主・森俊春のとき、播州で1万石余、作州で4万石余、合計5万4430石の預地を受けた。預地とは天領である幕府領の管理を任されていたもので、これを預かっている期間は自分の家の領地と同様に扱われた。つまり、三日月藩は7万石弱の家格と領地を支配することとなった。
これは、4代藩主森俊韶の治世まで40年近くも継続され、森一族の中で最も裕福な藩として繁栄した。